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長野県立科町は何故回廊状に細長いのか(再々質問) 立科町は役場などが所在す...

oda********さん

2018/6/2406:39:47

長野県立科町は何故回廊状に細長いのか(再々質問)

立科町は役場などが所在する北部と白樺湖や蓼科山がある南部と途中数十メートル幅の細い回廊で結ばれている地形です。

歴史的な入会権や水利権などの関係ではないかと想像しますが、これらの権利なら飛び地でも良いと思いますが、回廊状になった理由についてご教示願います。

過去に二回質問しましたがカテゴリーを変えて再度質問します。

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ait********さん

2018/6/2407:13:13

私はこの地域にはあまり詳しくないので、一般常識から推測してみます。

一般的に、このような回廊状の行政区は、その両側が何らかの強いつながり(特に宗教的な)をもっているときに発生します。
立科の場合を見てみると、くびれ部の南側、蓼科山山頂には蓼科神社の奥社があります。
くびれ部の北側、古町には蓼科神社の里宮があります。
よって、くびれ部の北側の人たちの蓼科山への強い信仰心が、2つの蓼科神社の存在によって両所を同じ行政区に所属させたのでしょう。
「飛び地でも良いと思いますが」とおっしゃいましたが、神社は参道がとても重視されますので、奥社へ向かう参道(今の県道?)を中心に細い区画でつながったのでしょう。

もちろん、これに加えて入会権や水利権などの関係がなかったとは言い切れませんが、回廊状のつながりの中心には蓼科山への信仰がある可能性は高いと思います。

質問した人からのコメント

2018/6/28 08:13:13

お三方から回答を頂きありがとうございます。大変参考になりました。
全てBAとしたいところですが、信仰説を選ばさせていただきます。

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the********さん

2018/6/2617:29:21

昭和の合併で、江戸時代の中山道宿場町からの芦田村と、立科村(牛鹿村・宇山村・山部村)、三都和村(藤沢村・桐原村・塩沢村)が合併した物が今の立科町。


芦田村は、明治の初期に江戸時代に山奥側に広がった姥ヶ懐新田・中尾新田を合併して成立している。


狭隘部は旧芦田村のその前の芦田村から、姥ヶ懐新田・中尾新田に向かって山間を分け入り部分。
南に広がった部分が有るように見えるが大部分は山林。
隣村との間には、山の峰が有り、地境は山の峰上。


姥ヶ懐新田・中尾新田は、佐久郡の他の新田村に比べ山間狭隘地に入ったところで、明治以降期に前には村以下の小さな地域で谷間にチョット存在した感じ。

佐久郡の他の地域では、江戸期に新田開発に、地域の名主が用水を通し、水利権などを代官事務所から公認され税制でも優遇されたとあるが、この2新田はそれらにも数えられていないほどの小ささ。

yuz********さん

2018/6/2407:40:45

・周囲の旧市町村に飛び地がほとんどないこと
・新旧近隣市町村も南信地域と接するため、細長い形状となっていた
・分水嶺や地形の関係で細長い市町村が近隣周辺にもあった
・南部水源が北部で利用されている
・旧街道が南北を結んでいた
・山林火災時に飛び地管理は難がある
・旧佐久、旧小県、旧諏訪 各郡、また旧藩や天領や旗本領などの境界で微妙な地域
など

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