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満州国の初代総理に、「鄭孝しょ」という人がなって、執政溥儀となったらしいので...

sgj********さん

2018/6/2419:16:31

満州国の初代総理に、「鄭孝しょ」という人がなって、執政溥儀となったらしいのです。
溥儀は、満州国の皇帝になりたかったけど、上記のようにせざるを得なかった。

のような感じで本に書かれているのですが、なぜそのように状態になったのか教えてください。

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cel********さん

2018/6/2818:47:43

既に他の方が回答されている説明とダブると言うか近いと言える内容になりますが、少し違うところもあるので、回答を差し上げます。

こういうご質問をされているという事は既にご存知なのでしょうが、溥儀は「清朝の復辟(=復活)」を熱望していました。自分の代で、建国から数えれば3百年弱、中国支配開始から数えても268年の王朝が終わってしまった、という意識も当然あったし、それに加えて、退位の際に中華民国政府と約束した条件(資金援助を受けて紫禁城で皇帝としての生活が維持できる)も中華民国側のクーデターで反故にされ紫禁城を追放された「怨み」もあったからですね。

にもかかわらず、何故直ぐに皇帝にならなかったか(=溥儀の希望が通らなかったか)と言うと、満州事変を起こした満州駐留の日本陸軍、つまり関東軍がそれを好まなかったからです。それは端的に言えば「清朝の復活=時代遅れの専制政治の復活」というイメージが強く、体裁上良くなかったからです。

これもご存知かも知れませんが、満鉄を自作自演で爆破する2~3ヶ月前に関東軍参謀本部が作成した「情勢判断ニ関スル意見」(『現代史資料7・満洲事変』・みすず書房・1964年・P162)に…

~~

『好機会ノ偶発ヲ、持ツハ不可ナリ。機会ヲ自ラ作ルヲ要ス』

『満蒙問題解決国策遂行ハ急速ヲ要ス急速解決ハ勢ヒ露骨ナラサルヲ得ス』

『九国条約ニ関スル門戸開放機会均等主義ヲ尊重スルトシテモ満蒙ニ於ケル既得権益ノ実効ヲ収ムル手段ヲ理由トセハ兵力ノ使用何等問題ナカルヘシ』

『九国条約ヲ尊重セサル場合世界各国ノ感情ヲ害スルコトアルモ之カ為帝国ニ対シテ積極的ニ来ルモノ幾何』

『満蒙ヲ占領セハ直ニ之ヲ領土化スルヲ有利トス』
~~

と書いてあるように、満州事変は関東軍(より正確には石原莞爾を実質的なリーダーとするその一部)が、国際的非難を受ける事を承知の上(“世界各国の感情を害する”だろうが、日本に対して積極的に対抗する国なんてあるか??、と考えて)、満蒙を領有する(つまり植民地にする)つもりで起こしたものです。

満州事変を起こした当人達は満蒙を領土化するつもりだったのに形式上“満州国”の建国になってしまったのは、『太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻資料編』(日本国際政治学会編、朝日新聞社、1963年)所収の『満洲事変機密作戦日誌』(陸軍参謀本部参謀第二課)の9月22日分にある関東軍参謀本部の『満蒙問題解決策案』に…

~~

『本意見ハ九月十九日ノ満蒙占領意見中央ノ顧ル所トナラス且建川少将スラ全然不同意ニテ到底其行ハレサルヲ知リ万コクノ涙ヲ呑ンテ満蒙独立国案ニ後退シ最後ノ陣地トナシタルモノナルモ好機再ヒ来リテ遂ニ満蒙領土論ノ実現スル日アルヘキヲ期スルモノ』

~~

とあるように、国際的非難を恐れた政府の意向を受けた陸軍中央(正確には参謀本部のトップ層)が満蒙領有を認めそうもないので、関東軍(及びそれを支持する陸軍中央の中堅クラス)が『万石=百万リットルの涙を呑んで』独立国案に“後退”した結果です。溥儀をトップとする政府にする案が出てきたのもこからです。これを、言い換えれば、(渋々ながらも)関東軍も体裁も一応は気にする方針に変えた、という事でもあります。
(そして、中国の領土保全を謳った九カ国条約に違反しない“形式”にする為には、あくまで「現地住民の分離独立運動」と主張する必要があり、実態は別として“満州国”のスローガンが「五族協和」になったのもそういう流れです。住民の9割以上が漢族=中国人なのに、“満州族の国”を作ろうなんて運動が自発的に起きた、なんて、同じウソにしても“更にウソっぽく”なるだけですからね…)

このように、溥儀の担ぎ出しの方針はかなり「泥縄」で出てきたもので、元々領有を狙っていた以上溥儀に実権を与える気は更々なかった(実際にそうなった)とは言え、その地位をどうするかは曖昧で、「溥儀を担ぎ出した結果、清朝の復活のように見えてしまう事」を嫌がる意見は、かなり初期からありました。


例えば、ネットでも見られる資料としては、↓はやはり『現代史資料7・満洲事変』にある当時の関東軍参謀片倉衷の「満州事変機密政略日誌」の1937年9月28日分ですが
東京から出張してきた陸軍参謀二部橋本少将が「宣統帝を擁立するも其身分は時勢に順応する如くす」という意見が陸軍中央の一部にある、という事を伝えています。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8350/seiryaku6_9_28.htm...

トップとして宣統帝(=溥儀)を担ぐにしろ“時勢に順応する”という意見は、“古臭く見えないようにすべきである、という意味ですね。

実は、こういう意識は溥儀が皇帝になる事が決まった後でもありました。

例えば、国立公文書館アジア歴史資料センターで見られる、帝政実施の4ヶ月程前の1933年10月20日に関東軍参謀長から陸軍次官宛に帝政実施についての意見の開陳を求める書簡には…(↓のページにレファレンスコードC01003032700を入力してリンクを辿って出てくる資料の12画像目~14画像目/全210画像)

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/reference

「素より君主制の実施は断じて君主独裁たる清朝の復辟にあらざる所以を明らかにし」

とあります。「溥儀を君主にするにしても決してそれは清朝の復活ではない、って事は世間に知らしめる」という意味ですね。


帝政移行を発表した時の鄭孝胥の名前で出た満州国政府声明が、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫で見られる1934年1月21日付大阪朝日新聞記事『執政皇帝登極は国運大発展の帰結』(↓)で読めますが…

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=1010...

その声明の末尾には、

~~

此次帝政実施は乃ち我満洲国国運発展の帰結にして亦即ち建国の理想とその使命を益益発揚し国基益々強固を加え而して藉々以て永久に東亜和平の福を保つ所以なり若し之を以て清朝の復辟と誤らんか建国の理想と使命に忠なる政府の執る処にあらず

~~

…とあります。

『溥儀が皇帝になるからと言っても、清朝の復活じゃないからな、みんな、そこを誤解するなよ』って主旨ですね。“満州国”国務総理の鄭孝胥は、溥儀の身近に長く仕えた近臣ですから、清朝復活を熱望していた溥儀の希望に反するこの様な声明を自分の名前で発表させられたのには、きっと相当心苦しいものはあったでしょうね。

同じく国立公文書館アジア歴史資料センターのレファレンスコードB15100058100の2画像目~5画像目/全6画像では、奉天総領事から広田外務大臣に対する帝政実施についての宣伝工作についての報告(1934年2月26日付)が見られますが、その5画像目/全6画像には“満州国”を巡回して行う帝政実施講演会の講演内容の要旨の一つとして「執政の即位は新興満州国の新君主にして清朝の復辟に非ざる事」が載っています。国務総理鄭孝胥命で“満州国”政府として「清朝の復活じゃないぞ。誤解するんなよ」と発表していても、更に各地で開く講演会で同じ事を宣伝しよう、って事です。

…という訳で、溥儀の「清朝の復活」という希望と、関東軍の「体裁はきれいにしておこう」(その為には“清朝の復活”のようには見せたくない)という方針は本質的には相容れず、それが当初は「執政」という形になり、日本の国際連盟脱退後も「もう、体裁なんてどうでいいさ」という話にはならず、溥儀の皇帝即位は認めても「清朝が復活したのではない」というのを“満州国”(=関東軍&日本政府)は強調した、という事です。

質問した人からのコメント

2018/6/29 08:08:34

みなさん、どうもありがとう。
何となく分かりました。

ベストアンサー以外の回答

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tea********さん

2018/6/2622:45:48

建国当初は、満州国は住民の意思により独立した共和制国家と言うのが建前だったからです。
一次大戦後は国際連盟を中心に、戦争防止、現状維持での相互不可侵が国際合意となっていました。これまではともかく、現状からの新規侵略は禁じられたのです。
ですから、日本が直接満州を支配することは出来ませんでしたので、住民の意思により独立したと偽装して傀儡国家を建てる事にしました。
だから皇帝を据えるわけにはいかなかったので、溥儀の皇帝即位の要望は受け入れられませんでした。
しかし、総理大臣は臣下の地位なので、皇帝を望む溥儀はそんなものになるつもりもありません。
ですので、総理の上に執政と言う地位を作って、共和制の体裁を整えようとしたわけです。

もちろん、満州国は実質は完全に日本が支配する傀儡国家で、そのような偽装はリットン調査団に看破され、国際連盟でも通用しませんでした。
結果、日本は国際連盟を脱退し、共和制の偽装はもう不要になりましたので、溥儀を満足させるために帝政に移行しました。もちろん実権は溥儀には渡さず、日本が握り続けていましたが。

ebi********さん

2018/6/2421:38:32

なんか勘違いされていませんか?
満州国建国時の「満州国政府組織法」によって執政には立法、行政、司法権のほか、官吏任命権、条約締結権、陸海軍統率権などの大権すべてが与えられており、国務院総理よりも遥かに権力のある国家元首で、もちろん総理よりも格上です。

建国当時の満洲が帝政でも共和政でもなかったのは、建国にあたって満洲域内での溥儀への支持が固まっていなかったからです。満州国が民衆の革命によって滅ぼされたはずの清朝がまた復辟したと民衆にみなされることは好ましいことではなかったための折衷案だったのです。

執政の採用は帝政反対派を説得し、建国を認めさせるための方便だったわけ。

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