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石田三成を正当に評価すると、どのようになるでしょうか?

kok********さん

2018/7/120:58:07

石田三成を正当に評価すると、どのようになるでしょうか?

過去の質問に答えてくれてありがとうございました。豊臣政権や石田三成についての質問では、kanetanさん、gpxさん、hjxyさん、aryaryaさん、usaiさんら(順不同)が、三成にも家康にも偏らず、客観的で、また礼儀をもって答えてくださっていると私は思っています。(もちろん見解が一致しているわけではない)。今回はusaiさんに質問させていただきます。

今まで石田三成について肯定的な質問をしてきましたが、それは三成が関ヶ原の戦いで負けたために不当に貶められているのではと思っていたからです。その結果、私のIDの最初の3文字が同じで、質問の文体まで似せ、盲目的な三成ファンを装った、なりすましの質問者様が現れましたが。

私の石田三成像は
①豊臣秀吉の忠臣(関ヶ原の戦いは豊臣家を護るため)、
②「戦下手」というのは不適切(関ヶ原での戦略はほぼ完ぺき。賤ヶ岳の戦いでは先駆衆で槍働きがあり、碧蹄館の戦いでは小早川隆景、宇喜多秀家とともに明軍を破っている)、
③右に出る者がいないくらいの優秀な官僚(兵站や検地でもっとも活躍。取次としても多くの大名から感謝されている)、
④領民に慕われた名君
であると思っています。
逆に加藤清正や福島正則が猛将というのは誤りで、彼らは吏僚としての働きがほとんどで、戦場で敵を討ち取るなどの手柄はほとんどなく、せいぜい逃げようとする者の首を取ったくらいだと思います。

これらに対し、ご意見や批判をくれるとうれしいです。

ちなみに私は「石田三成が好きか嫌いか、どちらかで答えよ」と聞かれたら、「嫌い」と答えます。朝鮮出兵での蔚山籠城で、兵糧も尽き、大将の首を土産に敵に投降する者が出てもおかしくない、強い精神力が必要とされるジリ貧の状況で、家臣と兵をまとめあげ、援軍が到着するまで持ち堪えた加藤清正の方が、私はよっぽど好感が持てます。一見、果敢で華々しい行動が、現状に耐えられなくなったための暴走ということがあるからです。

気が向いたら、質問に付き合ってくれるとうれしいです。kanetanさん方も気が向いたら回答してくれるとうれしいです。

この質問は、usa********さんに回答をリクエストしました。

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usa********さん

リクエストマッチ

編集あり2018/7/209:05:40

kokon_gu_toujoさんリクエストありがとうございます。

①については仮に石田三成が関ヶ原の戦いに勝ったとして、その後にどうするつもりだったのかは判然としないので関ヶ原の戦いを起こしたからといって「豊臣家の忠臣」と断定するのは難しいのではないですか。
それは織田信長が天下統一したらどんな日本になったかという話と同質です。

周公旦のような聖人ぶりを発揮するのか、はたまた執権政治のようなものを始めるのか、結果として豊臣の天下を奪うのか。
いずれでも可能性はあったと思います。

豊臣秀吉死後に毛利輝元と盟約を結んだり、徳川ー前田の二頭体制から五大老五奉行の合議に政体を変えたりと、必ずしも秀吉の遺言を遵守しない石田三成は徳川家康と共に権力争いゲームに熱中していたと見ても大きな間違いではないと思います。


②については戦下手ではなかったと思います。奉行としてのキャリアの方に重点を置かれていたので、登板機会が少なかっただけでしょう。

ただ、関ヶ原の戦いの戦略が完璧というのはちょっと疑問です。
まず、石田三成が挙兵した際に淀殿は驚き、前田利長らと連名で徳川家康に石田らを討つように通報させてしまいました。
真田昌幸からも事前に連絡を寄越せと文句を言われています。
端的にいうと根回し不足なんです。
もちろん秘密厳守という前提はあったかも知れないですが、であれば真田昌幸はともかく、淀殿や高台院、前田利長らをしっかりと説得して繋ぎ止めておかないのはあまりも不手際です。

もちろん、石田三成は無敵の名将ではないので、これは仕方なかったと思います。
ただ、逆に完璧な戦略、名将という評価をしてしまうには実績に対して荷が重すぎるでしょう。


③これは同意いたします。絶交状を叩きつけられた浅野長政とは違い、ある程度諸大名との関係は保たれていたと思います。


④加藤清正はどちらかというと奉行としてのキャリアのほうが多く、前線指揮官、猛将のイメージに合致してくるのはようやく唐入りの時からです。
また、名君伝説は加藤清正にも福島正則にもあります。
改易された大名は生前に明らかな悪逆がない限りは、現領主への反感と懐古から名君評が付きやすいです。

ただ、いずれにしても生前に悪評が少なかったからこそ、名君評があるのでしょうね。

質問した人からのコメント

2018/7/8 19:53:45

回答ありがとうございます。石田三成は別に戦下手ということはなく、文武両面で活躍した非常に有能な人物であることは間違いないでしょう。それを踏まえつつ、三成に対し批判的な見方をした質問も、今後はしていこうと思います。また気が向いたら質問につきあってもらえるととうれしいです。

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ait********さん

2018/7/422:39:06

関ヶ原ウォーランドで館長の話を聞きました。歴史好きの私も初めて聞く話です。大垣城で家康軍と対峙して家康軍は方向を変えた時点で翌日は関ヶ原が戦場になると読んだ三成が一番に打った行動は関ヶ原の農民960人に急いで避難して貰うことだった。家来に翌日此処は戦場になるから、すぐ避難して下さい、との呼びかけのお陰で関ヶ原の農民は全員山に逃れ誰一人被害に合わなかった。この話をテレビドラマデレクター・脚本家・作家等が取材に来るが乗せてくれないのが悲しい、とぼやいてました。当然此の地区の人々は先祖より言い伝えられた三成派ですよね。「太閤は良き忠臣を持った。私も三成のような家臣が欲しい」と家康は独り言を言ったそうな(司馬遼太郎「関ケ原」より」家康は三成の家族は罪に問わなかった。三成の子孫は現存してるそうです。問いの答えとは、ほど遠いですが三成の人柄を伺わせる逸話でした。

mrt********さん

2018/7/418:08:15

②まず碧蹄館の戦いは小早川隆景率いる6番隊と明・朝鮮連合軍が戦った会戦であり、立花宗茂の奮戦もあって宇喜多秀家、石田三成らの本隊が到着する前に決着はついている。つまり、石田三成はこの戦いの趨勢に関わってすらいない。碧蹄館の戦いの直後、会戦に参加しなかった大名を中心に朝鮮軍がこもる幸州山城を攻める戦いがあった。世にいう『幸州山城の戦い』である。この戦い、日本軍は大軍であったにも関わらず朝鮮軍に大敗をし、石田三成も戦場で負傷したと記述がある。要するに朝鮮出兵において石田三成には戦場での武功はない。

腕は良いが一度も難しい手術に成功したことのない医者を名医とは呼べないように、経過は良くとも結果が伴わない軍人を戦上手とは言えない。一般的にそういう人間のことを『理屈倒れ』というんじゃなかろうか。賢く理論はあっても、それを実行できる能力は持ち合わせない。まさしく通説での石田三成のイメージにピッタリじゃないか。

jfx********さん

2018/7/411:23:18

①忠臣と言うよりも自己保身ではないか?徳川の権限が強まれば自分の役目が無くなるし、徳川を倒せば自分の権限も大きくなる。


②朝鮮戦争で石田が軍功を上げた?????
石田が?


③優秀な官吏ですが多くの大名から感謝されていたのだろうか?もしも感謝されているならば依怙贔屓では無いか?取次として感謝されていたら加藤や福島等が東軍に回るはずが無い。

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