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秦のショウオウは太子の側近を極刑にしたのが理由で殺されたんですか?

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ID非公開さん

2018/7/1717:40:58

秦のショウオウは太子の側近を極刑にしたのが理由で殺されたんですか?

でも楚国のゴキと違って特権貴族を減らす政策を維持できたのは何故ですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

ina********さん

2018/7/1720:44:42

商鞅は秦の孝公に信任され法治主義を秦に導入して徹底させようとしたが、人々は法というものになじみが無く、中々いきどどかなかった。
商鞅はいろいろな工夫をして法治主義の普及を計った。
最後の決め手となったのが太子への処罰であった。
太子の嬴駟(後の恵文公→恵文王)もまた太子である自分は法など間もならなくてよいと考える人であり簡単に法を破っていた。
そこで商鞅は孝公に太子の処罰を進言し、孝公は太子の傅(後見役)である公子虔を鼻そぎに、た教育係の公孫賈を額への黥刑、に太子侍従の祝懽に至っては死刑に処した。
こうして法に違反すれば太子ですら処罰されると、国中上から下まですべての人が法に従うようになった。
すると10年のうちに法治主義の成果が出て、田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、治安も劇的に良くなった。

強引に法を守らせるために大量の処罰をしていた商鞅はそこら中から恨みを買っていたので、孝公が亡くなって恵文公が即位すると、公孫賈・公子虔も復権し、反商鞅運動が巻き起こった。
商鞅は逃走を図ったが秦国内では自分の作ったがんじがらめの法律に難儀し、ようやく魏に脱出しても絶頂期に魏に外征していたため追い返されてしまった。
やむなく自分の領地に帰って挙兵しようとしたが秦の討伐軍に攻められて戦死した。
しかし恵文王は商鞅の法治主義が富国強兵と中央集権(自分の独裁)に役に立つとして、法治主義や政策は捨てずに継続したので、秦は戦国最強の国家となっていった。

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質問した人からのコメント

2018/7/18 12:39:09

ありがとうございました

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