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桂小五郎は維新後は神経質で病弱なイメージがありますが、元々は長州藩をまとめる...

kob********さん

2018/8/2503:30:52

桂小五郎は維新後は神経質で病弱なイメージがありますが、元々は長州藩をまとめるだけの人望やカリスマ性があったのでしょうか?

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jun********さん

2018/8/2512:17:07

桂家というのは、毛利氏の実質的創業者である毛利元就の
時代からの重臣で、長州藩内でも格別の家柄です。
この家柄の力が、大きくものを言ったのでしょう。

長州藩と言うと、大村益次郎や伊藤博文、山県有朋など、
低い身分の者が下剋上的に台頭したイメージがありますが、
幕末当時は、藩内の規律の大変厳しい藩でもありました。
松下村塾系の下級武士たちは、藩主はおろか、家老クラスの重臣とも、
直接話の出来ないレベルです。
その中で、彼らの意見を聞き、賛同し、時にその過激さを抑えながら、
藩主や重役たちとの間を調整したのが、桂の役割です。
薩摩では、下級武士の西郷や大久保が家老や側用人に取り立てられ、
直接藩政を主導できたのに対し、長州藩はそれだけ遅れていた、
とも言えます。

質問した人からのコメント

2018/8/31 05:18:34

詳しい回答ありがとうございました。参考になりました。

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klm********さん

2018/8/2512:42:26

慎重派であって、臆病ではなかったと思います。
国民教育や天皇教育の充実に務め、むしろ、明治政府に貢献したと思います。
高杉晋作や坂本龍馬や西郷隆盛ほど、大活躍はしてませんが
見えない所で、協力し、
庁政務座の最高責任者として活躍する。
特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けました。

カリスマ性はないけど、真面目さが彼の信条ですね。
人が訪ねた場合、名前、住所を 必ず記録していたそうです。
その真面目さは、天皇、長州藩主・毛利敬親や明治天皇から厚く信頼されました。

ojy********さん

2018/8/2510:49:30

兄貴分であるが親分肌ではない

人望はそれなりにあったと思うが
カリスマってほどではないでしょ

ohx********さん

2018/8/2510:29:01

個性派揃いの長州では、松下村塾系の兄貴分的存在ではあっても、親分ではないので、まとめきれてません。
カリスマ性も人望の点も死んだ松陰にも、及びません。
剣術の腕前は、近藤勇を警戒させたほどで、若い頃は、病弱でもありませんでしたが。

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