ここから本文です

サマリア5書について教えてください。 ①サマリア5書使用されたのは、いつ頃から...

紙笛さん

2018/9/517:48:08

サマリア5書について教えてください。

①サマリア5書使用されたのは、いつ頃からですか?
②旧約聖書のモーセ五書とは、内容が違う点はどういうところですか?

③祭司文書成立年代の参考になりますか?

閲覧数:
150
回答数:
1
お礼:
500枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

dol********さん

2018/9/715:51:14

> いつ頃から

分からないね。一応、2〜3 世紀のラビや教父に言及されていることから、その時代を下限とすることはできる。では、上限はどこかとなると、結局「サマリア人はいつ頃から?」という問いとかぶることになる。

ご存知のように、サマリア人の起源については、「北王国が滅んだ後、アッシリアが移住させた異民族」とするものが古典的だ。しかし、この時代に大規模な移住があったというのは考古学的に確認できない。ヨセフスによれば、サマリア人が分離したのはアレクサンドロス大王の時代だそうだが、近年の一般的な見方は、バビロン捕囚後もイスラエルの地に残り、混血の進んだ人々が、やがてサマリア人と呼ばれるようになったというもの。

では、いつ頃からサマリア人と呼ばれるようになったのか。前 128 年、ハスモン王朝のヨハネ・ヒルカノス 1 世がサマリアとシケムを占領し、ゲリジム山にあった神殿を破壊したことで、サマリア人とユダヤ人との対立が決定的なものになった。この時をもって、サマリア人が歴史の表舞台に登場した下限とすることができる。しかし、上限については依然不明なままだ。

結局、前 7 世紀アッシリア時代から前 2 世紀ハスモン朝時代に至るまで、サマリア人がいつ生まれ、どのような生活を送っていたのか、まったく分かっていない。

> 内容が違う点

一般にサマリア五書は七十人訳との共通点が多いとされる(大洪水やアブラハム記事、十戒の補足的付加や文の順番など)。とはいえ、マソラ(伝統)本文と大きく異なる部分もあまりない。パラフレーズ、つまり噛み砕いた表現への直しは多いけどね。

サマリア五書の大きな特徴として、エルサレムではなく、サマリアのゲリジム山およびその聖所へ忠誠を誓うよう修正されている、と言われる。しかし、それが果たして「修正」なのか、それとも、もとは「ゲリジム山」であったものを後のマソラ系がエルサレムに修正したのか、研究者の間でも意見が分かれている。

> 祭司文書成立年代の

近年の大長編歴史書説、いわゆる八書・九書説を念頭に置くと、この質問は要するに「いつ頃、九書が律法と預言者に分けられたのか」という話とだぶることになるね。

ごく大雑把に、近年の考え方はこうだ。モーセ・出エジプト物語、士師物語群、王国物語、イザヤ・ヒゼキヤ伝承などが、前 5〜4 世紀のペルシア時代にまとめられて、現在の出エジプト記 2 章〜列王記 23 章くらいまでの長編物語が作られた。その後、祭司文書と非祭司文書の合わさった創世記と、出エジプト記 1 章、民数記と申命記、列王記 24〜25 章などが合わさり、大長編歴史物語になった。さらにその後、神の唯一の法である律法(モーセ五書)と、律法に従う預言者(先の預言者)とに分けられた。

なぜ律法が分離したのかについては、かつては「ペルシア帝国が民族自治のために法律を作らせた」という帝国認可説が流行ったが、現在はあまり受け入れられていない。それよりも、律法と預言者という区分が「所与の法と、法に従う者たち」という法学的・神学的動機に支えられており、「所与の法」である律法に特別な権威が付与された、ということが大事だ。

では、律法が分離したのはいつ頃か。律法の七十人訳ができるのが前 3 世紀、エジプト時代だから、これを下限とすることができる。また、律法の中にはアレクサンドロス大王の東征や、ペルシア帝国の崩壊についての影響がまったく見られないことから、ペルシア帝国の崩壊前、つまり前 4 世紀以前を想定することは十分に可能だ。

さて。サマリア五書は「五書」である以上、律法が分離した時代以降のものと考えられる。一方で、祭司文書の相対年代は律法の分離前であり、九書を構成する創世記の構成物と考えられている。となると、サマリア五書にはすでに祭司文書が溶け込んでおり、祭司文書の年代を同定する資料には(そのままでは)ならない、ということになるかな。

---

最後に。我々の手元にある聖書はエルサレム主義の強いものだから、それ以外の主義主張ってのはあたかも周縁的な異端であったかのように思ってしまう。だけど、エルサレム主義が実は小さいものであり、大勢を占めていたのは周縁の「異端」であったとしたら、どうだろうか。

北王国は南王国とは比較にならないほど豊かで、国際色に満ちた大国だった。ヤハウェ祭儀も北王国と南王国とで異なっていたと考えられている。

北王国は、サマリアの聖所を中心に、北の国境ベテル、南の国境ダンにも聖所を置き、国家神としてのヤハウェと配偶神アシェラを祭っていたらしい(多神教ではなく二神教であることに注意)。一方、小さな田舎の南王国では、王が祭司の役割を持ち、王宮と神殿が一体となって、創造神としてのヤハウェを祀ることで社稷を守っていたらしい。後に「正統」となるのは南王国のヤハウェ神学だった。

ただ、アッシリアに北王国が滅ぼされ、バビロニアに南王国が滅ぼされたにしても、多くの人々はそのままイスラエルの地に残り、自分たちの生活と習慣を守り続けたことだろう。

エルサレムが廃墟と化したことで、南王国のエルサレム主義は周辺に薄く広まったかもしれないが、おそらく本場はバビロンのユダヤ人(あるいはエジプトも?)へと移ったように思われる。遠く離れて実態を見ていないからこそ、エルサレムが理想化される。そしてネヘミヤの時代、帰還民によってエルサレムが再建され、エルサレム主義が実を結ぶ。

しかし、周辺に住むもとからの民としては、エルサレムの神殿が再建されるなら何故サマリアの神殿も再建しないのか?ベテルのは?ダンのは?という思いもあったんじゃないかな。もしかしたら、すでに再建していたかもしれない。

北王国のヤハウェ祭儀は別に聖所を 1 つに限らなかったし、配偶神もいたしで、宗教混淆しやすいものでもあったろう。だけどエルサレム主義からすれば、そういうヤハウェ祭儀はことごとく「バアル崇拝」であり、忌避された。列王記でバアルと呼ばれているものの多くは、たぶん北王国のヤハウェであったと思われる。

いずれにせよ、帰還民を中心とするエルサレム主義と、そうでない周辺の人々の間には、だいぶ温度差というかグラデーションがあったのでないかな。

で、エルサレム主義の影響がよく出ている歴代誌は九書の存在を前提にしているようだし、エズラ・ネヘミヤ記は律法の存在を前提にしているように思われる。話が長くなったので端折るけど、要するに、サマリア五書ってのは別にサマリア人が作ったわけではないのでは?ということ。

もともと九書的なものが作られて、五書が分離した。それを、一方ではエルサレム主義の人々が使い出し、他方では後にサマリア人と呼ばれる人々が使い出し、さらに七十人訳の底本になった。で、マソラ本文はエルサレム主義でありつつ、調停の跡も少し見られるんじゃないかと。たぶんね。

  • 質問者

    紙笛さん

    2018/9/719:28:06

    これだけ良質で多量の知識を、簡潔に纏めてくださり有難うございました。

    書き込むだけでもお時間を割いてくださり感謝しています。

    最近の聖書の成立過程の概略を知ることができて嬉しいです。

    また、エルサレムが特殊なのかもしれないとの、北王国のお話は
    目から鱗でした。

    エルサレムから遠く離れたバビロン(または、エジプト)のユダヤ人が
    エルサレムを理想化し、その思想と共に帰還した。〜
    もとからの伝統に従って地元で歳月を重ねた人々は戸惑った〜

    きっと、潜伏キリシタンとパリミッションの出会いみたいな違いがあったのかな、と想像してしまいます。

    もしよろしければ、質問を後ほどさせてください。



返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

質問した人からのコメント

2018/9/8 22:27:46

詳しい解説ありがとうございました。
とても勉強になりました。
また、わからないところがあった時に、時々質問を出しますので、
お時間がありましたら回答を是非お願い致します。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる