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なぜ明治維新や倒幕運動で仙台藩は活躍しなかったのですか?

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ID非公開さん

2018/9/1014:31:14

なぜ明治維新や倒幕運動で仙台藩は活躍しなかったのですか?

仙台藩は東日本の大藩ですよね。石高も高いし、関ヶ原で徳川方についたとは言え、いつか徳川を討とうと画策していたはずです(家光に100万石の手形を履行するよう迫ったり、支倉をスペインに派遣したり)

それが明治維新では名前も見ないどころか、会津藩を救うために奥羽越列藩同盟という負けが確定しているネットワークを作ったりして迷走したように見えます。

そもそも会津藩も初代の「徳川につけ」という言い付けが無ければ、京都所司代になんかつかなかったはずです。仙台脱藩の山縣さんも新撰組になったし、世間の流れは見えていたはずですよね。


何か仙台藩が明治維新のために画策していたことはないんですか?

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axy********さん

2018/9/1110:42:51

奥羽越列藩同盟首謀者
大槻磐渓:仙台藩校養賢堂学頭西洋砲術指南取扱、蘭学者
1849年、幕府老中・阿部正弘へ開国論「献芹微衷」(親露開国論)を建白
1853年、ペリー来航、浦賀へ出張。開国論「米利幹議」、「魯西亜議」の外交建白書を著す。 彼は漁船に乗って黒船に近づき、中国人通訳・羅森に漢詩を送った。この話を聞きつけた吉田松陰は、黒船に乗り込むための奇策を磐渓に相談したというエピソードがある。
1868年、仙台藩に会津藩追討の命が下る。磐渓は会津藩助命の朝廷への建白書が起草。既に東征軍が出発していたため建白書は時期遅しとして朝廷に届けられずに終わったが、東京の「中外新聞」に掲載され薩長を憤慨させた。
白石に奥羽14藩の代表が集まり、盟約書(白石盟約)が審議されて奥羽列藩同盟が発足。 磐渓は星恂太郎率いる仙台藩の洋式歩兵隊に「額兵隊」という名を与える。
星恂太郎:仙台藩額兵隊隊長(スナイドル銃を装備した最新鋭部隊約800名、仙台藩降伏後、250人が脱藩して函館戦争に参戦、木古内で勇戦。最後まで戦い抜いた。
細谷直英:仙台藩衝撃隊隊長(黒装束に長脇差一本で新政府軍に夜襲攻撃を敢行し、新政府軍を恐怖のどん底に陥れた。衝撃隊の新政府軍への襲撃回数は30数回に及び、衝撃隊はその全ての戦いに勝利。衝撃隊は列藩同盟軍の主戦力ともなった。 )


仙台藩士・姉歯武之進らが奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵(長州)を殺害して東北戦争が開戦した。

仙台朝廷
盟主 :東武天皇(輪王寺宮・北白川宮能久親王)
総督 : 仙台藩主・伊達慶邦、米沢藩主・上杉斉憲
参謀 : 小笠原長行、板倉勝静
政策機関 : 奥羽越公議府(白石)
大本営 : 軍事局(福島)
最高機関 : 奥羽越列藩会議

  • axy********さん

    2018/9/1110:43:07

    明治維新

    北海道開拓
    亘理伊達氏はに有珠郡(現在の伊達市)へ集団移住した。船岡柴田家中の一部も亘理伊達氏に同行(現在の伊達市舟岡町)。
    岩出山伊達氏は、家臣たちと共に札幌郡・空知郡(最終的に現在の当別町)へ集団移住した。
    片倉氏は、幌別郡(現在の登別市幌別)および札幌郡最月寒(モツキサップ。現在の札幌市白石区)および発寒(現在の札幌市手稲区)へ集団移住した。
    角田石川氏は、室蘭郡(現在の室蘭市)に入植後、元家老等一部を残し空知地方に入植した(現:栗山町)。
    一関伊達藩は白老町。
    水沢伊達氏は札幌市豊平区平岸に入植した。

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say********さん

2018/9/1322:55:36

仙台藩では家臣同士が遠藤允信をリーダーとする尊王派と但木成行をリーダーとする佐幕派に2分されて激しく争いましたが、結果として佐幕派が勝利して遠藤允信は閉門処分されています。
そのため仙台藩は大政奉還まで佐幕派の一角になりましたので、倒幕で活躍することはありませんでした。

大和さん

2018/9/1117:29:22

奥羽越列藩同盟は明治新政府に対抗する為、賊軍の汚名を払拭するために東国政権とでも言うべき政体を構築した。

保護した輪王寺宮を東武皇帝として即位させ、伊達は征夷大将軍、上杉は副将軍に任じられている。

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2018/9/1117:14:14

「外様大名はみんな、江戸時代のあいだずうっと、徳川に取ってかわろうと虎視眈々と狙っていた」
というのが、大嘘。
江戸時代の大半の期間、すべての外様大名は幕藩体制のなかで安定した社会が続くことを望んでいた。ムリして戦争起こして天下取ろうなんて無駄な野心、誰も持ってなかった。「関ヶ原の恨み」云々なんてのは、司馬遼太郎先生の作ったフィクション。そのほうがエンタメとしては面白いから。
しかし、幕藩体制自体にガタがくる。そんとき、幕府を立て直してもらうか、それとも幕府を倒して新しい体制を作るか、そのときどっちにつくかは、そのときそのときのそれぞれの藩の立場と事情による。「外様だから」徳川の敵に決まってるってのは大間違い。「むかし西軍だったから」なんて大昔のことはなんにも関係ない。

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nad********さん

2018/9/1019:09:39

仙台藩、伊達は徳川に取って代わろうとずっと企んではいます。
島津、毛利などもそうです。
島津や毛利に持っていかれたのですぐには従いたくは無かったと思われます。
もし島津や毛利が互いに潰し合ったら、伊達が動いたでしょうね。

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nic********さん

2018/9/1015:41:35

なにもないです。
当時の仙台藩は大赤字で財政が破綻していましたので、特になにかできる状態ではなかったでしょう。
さらに、江戸時代を通じて家格がほぼ同格であった島津家にやたら対抗心を燃やしていたので、素直に薩摩主導の新政府に従えなかったのでしょう。

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