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山本五十六が早期講和を目指していたって根拠は何なんですか?後世の捏造では?

dol********さん

2018/10/1222:15:46

山本五十六が早期講和を目指していたって根拠は何なんですか?後世の捏造では?

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kou********さん

2018/10/1303:51:08

>山本五十六が早期講和を目指していたって根拠は何なんですか?

根拠はありません。まあ「捏造」と言うより、想像でしょうか。以下、少々長くなって申し訳けありませんが過去回答を繰り返させていただきます。

山本発案の真珠湾攻撃が余り見事に成功したので、太平洋戦争そのものを山本が主導したと思っている人が多い様ですが、誤解ですね。

聯合艦隊司令長官と言えば軍人として立派な地位ですが、国が戦争するかしないかと言う国家の最高国策には権限も責任も無かった。それは総理大臣・陸軍大臣(東條英機が兼任)・海軍大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長が決める事です。

しかし日本がアメリカと言う史上最強の軍事超大国に戦争を仕掛けるに当たり、アメリカとどんな戦争をするか、戦争がどうなったらどんな方法で講和をもちかけるか、それともどちらかが参るまで戦うか、、、と言う今なら中学生でも考えそうな政略、戦略を持たないで戦争を始めたのが東條を筆頭とする当時の日本でした。

山本は個人ベースで「負けるに決まった戦争する馬鹿がいるか!」と対米戦争反対を説きました。二度にわたる在米経験と独自の勉強から、山本はアメリカの巨大な国力、軍事力を熟知していた。客観的な数字を具体的に示しても、陸軍や右翼の連中は「そう言うのを恐米病と言う」と馬鹿にし、「精神力があればアメリカになんか負けない」と言っていた。

ppi********さんが書いておられる様に、 緊迫する日米関係について山本五十六が近衛文麿首相に意見を聞かれ、「是非私にやれと言われれば一年や一年半は存分に暴れて御覧にいれます」と言ったのは有名ですが、そのあとがあります。

「しかしその先の事は全く保証出来ません」「もし戦争になれば私は飛行機にも潜水艦にも乗ります。太平洋を縦横に飛び回って決死の戦さをするつもりです。総理もどうか生易しく考えられず、死ぬ覚悟で交渉に当たって頂きたい。そしてたとえ交渉が決裂しても、尻をまくったりせず一抹の余韻を残して下さい。外交にラストワードはないと言いますから」、と。

嶋田繁太郎海軍大臣にはこう書きました(概略)

「、、、中国との戦争4年で疲弊した日本が更に米英と同時作戦を行うなど到底無理な話で、、、どうしても立ち上がらざるを得ずとすれば、艦隊担当者としては並みの作戦では見込み立たず、桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行うような羽目に追い込まれる次第、、、」

つまりまともな戦争にならないぞ、と。

また、別の手紙で「こうなった以上は陛下に戦争はやるなと言っていただく様にお願いしてくれんか」と言う意味の事まで書いている。しかし優柔不断で、東條の副官、東條の男めかけとあだ名された嶋田海軍大臣は東條に引っ張られて開戦に同意してしまいました。

永野修身軍令部総長に対しては、どうしてもやれと言われたら聨合艦隊としてはこんな作戦を、と説明したあと、こう言いました。

「次に一大将として第三者の立場として申せば、日米戦争は長期戦となること明らかであります。日本が有利なる戦いを続ける限り米国は戦いをやめざるべきをもって戦争は数年に亘り、資材を蕩尽せられ、艦船・兵器は傷つき、補充は大困難を来たし、ついに拮抗し得ざるに至るべし。のみならず国民生活は非常に窮乏を来たし、、、かかる成算なき戦争は為すべきではないと思います」

「成算なき戦争」、勝てるわけのない戦争、、、

それにも拘わらず、耄碌が始っていた永野軍令部総長も東條に迎合して対米戦争を促進しました。

いよいよ日本が戦争を決めた時、山本は海軍兵学校同期の親友・堀悌吉中将に「個人としての意見と正確に正反対の決意を固め、其の方向に一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なもの也、之も命(=運命)と言ふものか」と書いています。

自分があれほど反対した戦争の先鞭を切らされた山本は複雑で悲壮な気持ちだったでしょうね。しかし彼とて天皇の兵士、一旦やると決まった以上は全力を尽くそう、と。

山本の戦略は、日本軍が優勢な間に攻めて攻めて攻めまくる、と。山本に私淑していた右翼の巨頭・笹川良一にこう言ったそうです。

「そりゃあ最初のうちはタコが足を広げる様に勝って勝って勝ちまくってみせる。しかしそのあとはなあ、、、」

「そのあと」は国・軍トップの責任ですが、今からでは考えられない事ですがまったく何も計画していなかった。山本は日本軍が勝ちまくっている時に国のトップが講和を考える、と期待していたのではないかでしょうか。

シンガポール陥落の時、参謀の一人が講和について聞いた。山本はこう言ったそうです。

「講和を持ち出すとすれば今が一番いいかな。これまでに占領した地域をすべて返還するくらいの覚悟があればいいが、みんな有頂天になってしまっているからな」、と。

これはあくまで参謀との雑談の一部であり、そんな国レベルの事は山本の権限でも責任でもない。東條の様になんでもかんでも口を出すのとは反対に、山本は職務に直接関連しないことは聞かれないと言い出さなかった。山本に関し「講和」と言う言葉が出て来るのあとにも先にもこれだけです。

山本は開戦を控えて天皇に伺候したあと呉に戻る途中、横浜駅にお忍びで見送りに来た堀悌吉にこう言ったそうです。

「見送り有難う。千代子さんお大事に(堀の奥さん。病気だった)。オレはもうこれで帰れんだろうな」

厳しい表情だった、と。そしてその通りになりました。

と言う事で、太平洋戦争は日本政府・軍トップが独自の判断、意思で始めた戦争でした。山本があんなに反対した戦争を始めておいてその結果を彼の責任にするのはどうかと思います。

この戦争に至った背景については以下を御参考に。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q121889509...

(下の写真)
ラバウルで出撃する零戦を見送る山本五十六。このすぐあとに戦死。

>山本五十六が早期講和を目指していたって根拠は何なんですか?...

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ppi********さん

2018/10/1223:31:40

開戦の少し前に、近衛秀麿と内密にあって「もし対米戦になったら海軍は勝てるか?」と尋ねられた時、
「そりゃ1年や1年半は大いに暴れて見せます。しかしその後はわかりませんから、政治の力で解決の方をよろしくお願いします。といった」と、同志にあてた手紙で書いている。

山本は、実にまめに手紙を書いている、ただの挨拶も多いが、心を打ち明けられる知人(元の条約派。将官)にあてた手紙は本心を吐露している。


阿川弘之 や半藤の山本伝を読めばわかる。

ran********さん

2018/10/1304:51:05

山本五十六はアメリカに留学していたことがあるから、アメリカと日本の物力の違いは熟知してましたよ。
だから、開戦にも反対していたんですよ。
1年以上長引けば勝てないと。

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