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南北朝の動乱は何で60年も続いたのですか?

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mad********さん

2018/10/2922:56:44

南北朝の動乱は何で60年も続いたのですか?

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met********さん

2018/11/101:15:14

色々な理由がありますが、根本的には次の時代の準備ができないうちに鎌倉幕府が早々に倒れてしまったからです。

源平の争乱や和田、三浦の反乱があっても武士たちの政権(鎌倉時代)が割としっかりスタートできたのはなぜでしょうか。

それは平安時代が長く続いて荘園が発達し、次の時代を担う階級(農業を経済基盤とする武士)がしっかり育っていたからです。

しかし、鎌倉時代は時代遅れになったから滅びたのではなく、元寇で困窮した農業武士たちの共食いです。その証拠に、建武の親政でも室町幕府でも、担いでいるのは農業武士、政治制度は鎌倉幕府のコピーです。

おそらく次の社会の中核になり得たのは武装商人です。楠木正成や名和長年がそうですし、その他にも霞ヶ浦、伊勢湾、琵琶湖、瀬戸内海、玄海灘などには武装商人という階級が育っていました。

ちなみに今の皇太子様の卒論は鎌倉時代の武装商人たちの通商ネットワークの研究だったと思いますよ。

彼らが成長しきらないうちにあっけなく鎌倉幕府が倒れ、武装商人主体の幕府はできませんでした。

南北朝が長く続いたのは、幕府が農業武士に基盤を置こうとしたのに対し武装商人たちが抵抗して南朝についたからです。

それは、足利義満が日本国王の称号を得て大陸貿易の権利を掌握し、これに繋がる全国の武装商人を支配するまで続きました。

質問した人からのコメント

2018/11/3 00:09:51

みなさん、ありがとうございました。

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nic********さん

2018/10/3006:04:53

観応の擾乱ですね。
壊滅的打撃を受けて滅亡寸前であった南朝が息を吹き返し、全国各地の武士同士の所領争いに火をつけてしまい収集がつかなくなったのです。

won********さん

2018/10/3001:44:39

南北朝の争いが60年近くも続いた最大の原因は、意外にも足利尊氏の優柔不断さと、配下の武士に対する統率力のなさにあります。

後醍醐天皇が吉野に逃げた後、北畠顕家、新田義貞という南朝方の有力武将二人が相次いで戦死し、南朝は軍事的には壊滅寸前となりました。そんな失意の中で後醍醐天皇は、

「私の願いは朝敵(北朝)をことごとく滅ぼして世を太平にすることにある。決して諦めるな。戦って必ず京を回復せよ。私の子孫が私の命令に従わないのなら、それは決して正統な天皇ではないし、仕える臣も忠臣ではない。」

と言い遺して死にます。儒教の世界では親の遺言は絶対です。変更することも取り消すことも出来ません。南朝は死ぬまで戦うことを義務付けられました。

いっぽうの北朝では、初代将軍・足利尊氏の「いい人」すぎる統率力のなさが幕府内で抗争を呼び、負けた側が巻き返しのために南朝の権威(南朝は三種の神器を持っている)を利用したために、壊滅寸前の南朝が息を吹き返してしまい、日本全国が北朝方と南朝方に分かれて抗争をくり返す事態となりました。

sfg********さん

2018/10/3000:29:33

観音の擾乱で北朝と南朝の対立構造が複雑になったからだと思います。

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