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何故徳川御三家は尾張、紀州、水戸なんですか?

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ID非公開さん

2018/11/422:03:44

何故徳川御三家は尾張、紀州、水戸なんですか?

京都は朝廷なので

大坂、尾張、金沢のほうがよくないですか?

当時の大都市は江戸大坂京都名古屋金沢

それと何故 紀伊から将軍でたんですか?尾張の方が栄えてたのに何故尾張からでなかったんですか?

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jun********さん

2018/11/422:22:14

大坂は大事だから、幕府の直轄にしたのです。
紀州はその直轄地の大坂をサポートするのに、
重要な場所だからです。
金沢には前田家がいるし、金沢が大都市になるのは、
江戸後期からです。
北陸の抑えとしては、御三家とほぼ同格の越前松平家が、
福井にいます。

水戸は徳川将軍家を補佐する意味で、江戸型近い場所に、
おかれました。
つまり、大都市だからといった理由ではなく、
幕府を防衛するためと、幕府を円滑に運営するための、
配慮だったのです。

>何故 紀伊から将軍でたんですか?

八代将軍を選ぶ際、紀州と尾張で、熾烈な争いがあり、
最終的に老中の合議で、紀州の吉宗に決まりました。

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f27********さん

2018/11/611:17:07

最重要のところは一族とはいえ半独立国・自治領として誰かに任せるより、幕府が直接支配した方がよいです
室町幕府は鎌倉に公方を置きましたが、それは常に戦乱の火種となり、終始不安定政権となる一因となりました

金沢はそこ自体が単独で発展していた都市というより、加賀能登越中の3国合わせた大藩の藩主の居城であったということです
江戸時代の発展は前田氏の功績というものです
江戸時代に入る時点なら、むしろ福井の方が重要な土地ではなかったかと思います

七代将軍の家継が夭逝したさい、当然尾張徳川家も後継候補になりました
尾張家は前藩主の急死などで内部が混乱したのと、治世も停滞していました
一方の紀州家も藩主の急逝は続きましたが、その後を受けた吉宗は藩の財政を立て直すなど、治世に対する評価も高かったです
大奥や幕閣への根回しなどもありましたが、結局は器量(人物と実績)で選ばれたということです
なお名古屋が三大都市ひとつと栄えるようになったのは、吉宗将軍就任後に尾張藩主となった徳川宗春の政策によるものが大きいです

san********さん

2018/11/523:56:03

ひとつには政治経済的理由、一つには歴史的経緯です。
御三家は紆余曲折を経てそのように定着したもので、最初からそう定められたわけではありません。

まず大坂ではない理由は、大坂が経済的・地理的にも歴史的経緯でも重要でありすぎたために、幕府が直轄地とすることを望んだからです。


次に家康時代に宗家継承権を想定された分家ですが、義直の尾張家と頼宣の駿府家です。頼房の水戸家は入っておらず、紀州はまだ徳川家のものではありません。

尾張家は美濃の一部、駿府家は遠江の半ばも領有しており、東海道を両家が抑えている形になります。家康時代の構想では、まず江戸~京都間のルートをがっちりと確保することが最重要事項であったと言えます。

一方、仮想の敵対勢力が京都に入るルートを遮断する役目は、越前松平家と姫路藩(池田家のちに本多家)が担っています。池田家も本多(忠政)家も徳川将軍の婿にあたる家で、宗家継承権のない親族大名が抑えていたと言えます。

金沢は豊臣秀吉時代からの前田家の居城であり、関ケ原合戦からずっと徳川家に協力的であった前田家をここから動かすのは簡単ではありませんでした(敵対的ではない転封には加増が伴うのが筋です)大坂の陣の戦功を名分として、四国全土への転封が打診されたことはありますが、前田利常は住み慣れた金沢が良いと謝絶しています。



家康の死後、1619年に広島の福島正則が改易されると、玉突き人事で和歌山の浅野長晟が広島に、駿府の徳川頼宣が和歌山に転封されます。頼宣の去った駿府は将軍秀忠の次男、忠長に与えられます。駿府は家康が長年住んだ最後の居城であり、名古屋城に匹敵する大天守を持つ、政治的にも地理的にも重要な拠点でした。

秀忠は駿府という要地から弟頼宣を追い払い、息子をその座につけたといえます。尾張義直、紀伊頼宣、駿府忠長はいずれも徳川姓と権大納言の官職が与えられています。秀忠は宗家継承権をこの三家にあるとしました。

ところが、忠長は兄の3代将軍家光と折り合いが悪く、大御所秀忠が死ぬと間もなく改易、切腹となります(1634年)これ以降駿府は幕府の直轄地となります。

家光にはこのころ子がなく、宗家断絶の恐れもあったためか、それまで親藩の一つであった水戸家の頼房に徳川姓が許されます(1636年)ここで水戸家にも宗家継承権が与えられたと考えられます。

家光は1641年になりようやく男子を授かります。その後も息子に恵まれ、家光からは館林(徳川綱吉)、甲府(徳川綱重、綱豊)の分家が興ります。しかし、いずれも宗家を相続した後に断絶してしまいました。


ここまで見てきたように、徳川宗家の継承権をもった家は時代とともに変わりました。秀忠が忠長家、家光が綱吉家、綱重家という分家を興したように、秀忠の系統が順調に子孫を増やしていけば世代を重ねるごとに尾張家と紀伊家の系統の継承権は薄まっていたでしょうが、秀忠の系統はいずれも断絶してしまうことになります。

結果的に宗家を継ぎうる家系として残ったのが、尾張、紀伊、水戸家であったというのが御三家の実像のようで、尾張を除けば最初からそうあるべくそこに封ぜられたわけではなかったのです。



紀伊家の吉宗が選ばれた理由については、また長くなるのでかいつまみます。
端的に言えば、家格よりも実績が優先されたということになります。

秀忠系統最後の将軍である家継が死去した時点で、吉宗は33歳、紀伊藩主として10年の実績がありました。またこの時点で二人の息子に恵まれていました。
一方で尾張家は吉通が存命であれば次期将軍の最有力候補でした。しかし、家継の死の前に急死してしまい、弟の継友が部屋住みから昇格したばかりでした。

tyu********さん

2018/11/512:45:14

大阪は商人しかいないし、京都は天皇を閉じ込めておくところ、金沢?雪しかないじゃない。

役にたちませんよ。

水戸は北への要。

紀州は瀬戸内の出口。

尾張は東街道の一大拠点です。

はるかに重要ですよ。

mas********さん

2018/11/511:33:12

御三家は直系が絶えた時に将軍を出す為に作られた準直系が初代藩主となっています。
尾張:松平忠吉(家康4男:秀忠同母弟)
水戸:徳川頼宣(家康10男のちに紀州藩初代)
紀州:徳川頼宣(同上)

御三家は世継ぎ確保と同時に江戸の守りも兼ね備えて配置されたものと思われます。

筆頭の尾張家は流通の要を抑えている。(東海道、中山道)
紀州家は海道を抑え、西国から回路にて江戸を攻められないよう。
水戸家は奥州外様に対応するため。(会津松平家と共同で)

北陸には越前松平家(初代は秀康)が有る。

他の人の回答にも有りますが、吉宗と継友、どちらも譲らずでしたが家康からより近い血を持っている吉宗に決まったと理解しています。

sad********さん

2018/11/507:15:49

紀州は海の道を押さえる必要からでしょう。紀州藩は東は三重の伊勢あたりまでが領地ですからね。

当時の尾張家当主は家康の4代離れた玄孫で、紀州藩の吉宗が3代離れた曾孫だったのも影響したといわれてます。このころになると本家筋から血縁が大分離れてきますからね。

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