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隋や唐は純粋な中国人でなくトルコ系の異民族による政権だそうですが、官僚など政...

t04********さん

2018/11/709:50:26

隋や唐は純粋な中国人でなくトルコ系の異民族による政権だそうですが、官僚など政治中枢を担っていたのも異民族か、科挙などの登用試験で漢人を積極的に採用していたのですか?

隋の大運河建設や移動宮殿などの大土木工事を行った天才的土木官僚も異民族か採用された漢人のいずれですか?名前からはみな楊堅のように中国風に変えているので区別がつけにくいですが。

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cel********さん

2018/11/1111:15:31

一般論で言えば、隋・唐は、貴族の勢力がまだ強く(言い換えれば、宮廷内での高い地位に就くには、血筋がものを言い)、その貴族の中には、隋統一前の北朝の頃からの有力者の血筋をひく者が少なくありませんでした。北朝は元々は遊牧民が建てた王朝ですから、当然ながら元々は遊牧民の血筋を引く貴族はいて、それが隋・唐でもその地位を維持している例はありました。

例えば…

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https://kotobank.jp/

~~

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宇文化及
うぶんかきゅう
Yu-wen Hua-ji; Yü-wên Hua-chi

[生]?
[没]武徳2(619)
中国,隋の反臣。北周系の門閥宇文述の長子。隋末に各地で反乱が起ったとき,化及は北帰を望む軍人らを率いて江都にいた煬帝 (ようだい) を殺した。(以下略)


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長孫無忌
ちょうそんむき
Zhang-sun Wu-ji; Chang-sun Wu-chi

[生]開皇15(595)頃
[没]顕慶4(659).7. 黔州
中国,唐初の重臣。鮮卑系貴族の名門出身で,妹は唐の太宗の文徳皇后。
(以下略)


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宇文融
うぶんゆう
(?―729)

中国、唐の政治家。京兆(けいちょう)万年(陝西(せんせい)省西安)の人。北周の宗室宇文氏の後裔(こうえい)で、融はその家柄によって官界に入ったらしい。

(以下略)

~~

などと言った説明の様に、出自としては遊牧民系である有力者が隋・唐でも高い地位を得ていた人物がいたのは、かなり良く知られた話です。

つまり、『隋・唐の政治の中心に異民族の血筋の者も登用されていた』事自体は、かなり良く知られた話です。
が、その一方で、北朝の北魏が漢化政策をとった事もあり、漢人が政治の中枢に登用され、有力者同士でも漢人系と鮮卑系の間の婚姻も進み、漢人か遊牧民系かが、かなりどうでも良い話になって行きました。

唐の皇室が遊牧民の血筋を色濃くひくものである事は、私の知る限りでは宮崎市定が1940年代前半(或いはそれ以前)から言っていた事ですが、宮崎市定の本のその部分を図書館でコピーしたものがすぐに見つかりませんが、殆ど同化していた、って事はハッキリ書いていました。

つまり、隋・唐の皇室は、漢人化した鮮卑系とも鮮卑の血筋を色濃くひく漢人と言っても、殆どどっちでも良い様な話です。

一旦話は飛びますが、中国史には“征服王朝”と“浸透王朝”と言う概念があります。またコトバンクから引用します。

~~

世界大百科事典内の浸透王朝の言及

【征服王朝】より

…この中国征服王朝は,遊牧民である契丹やモンゴルの建てた遼・元と,狩猟・農耕民である女真・満州族が建てた金・清とでは,農耕民である中国民族の経済と異なるか似ているかによって,中国文化に対する態度が異なり,そこで,文化的に中国文化に抵抗するもの(遼,元)と,文化的に中国文化に従順なもの(金,清)とに類別される。また五胡十六国,南北朝時代の北方系王朝は,それらの中に複合的・二元的社会の存在が認められるが,明確な征服行為を欠くため,征服王朝に類似しているが,とくに浸透王朝と称される。

~~

要するに、異民族が中国を征服し、二元的支配構造などが維持された王朝を征服王朝と呼ぶが、征服行為がハッキリしない王朝は浸透王朝と呼ぶ、って事ですが、皇室が鮮卑の血筋を色濃くひく、と言うのがほぼ常識の様になっている今でも、隋・唐はこのどちらにもカウントされていません。何故かと言うと、鮮卑系か漢人系がどっちでも良い話になっていて、漢人としての文化を受け入れ、そうした漢人文化を受け入れた中では、支配体制にも漢人と遊牧民の区別はなかったからです。

最近ネットでは、隋や唐は純粋な中国人でなく、鮮卑系(=おそらくはモンゴル系か?)の異民族が建てた王朝である事を強調する人達が妙に多いですが、真っ当な歴史学者が書いた本では、出自としてはそれが触れられていたとしても、“異民族による支配”とは書いていないはずです。

ですので、御質問に対する直接的な回答としては、

隋・唐では、皇室を含め遊牧民系の血筋を濃くひく貴族が政治の中枢にいた事自体は間違いないし、区別が重要で無くなったからハッキリしないだけで、比率としては恐らくは人口比率よりはかなり高いはず

一方、科挙は、(遊牧民系か漢人系かに関わらず)貴族がその出自によって政治の中枢を握る事への皇帝の対抗手段でもあるからして、血筋で高い地位を得ていた貴族の中での遊牧民系の血筋よりは、科挙でのその比率は人口比に近くなるはず

…ぐらいは言えても、そもそもどっちであるかが大して気にされていない時代だったので、記録もそれ程は関心を払っておらず、例外的に血筋がわかるケース以外は、個々の官僚については良くわからない(御質問者が指摘された様に名前ではわからない)、って事になります。

要するに、隋・唐の皇室や貴族は、元々の血筋がどうだったかに関わらず、文化的に、あるいは自意識としては漢人だった、だから異民族王朝と呼ぶ意味は無いし、政治の中心に異民族の血筋の者も特別に意識されずに登用されていた、って事です。裏返せば、科挙でも“積極的に漢人を登用した”、と言ったら間違いになるのでしょうね。どっちでも良かったから、その結果登用の比率は人口比に近づいた、って言う程度のはなしでしょう。

なお、漢化した遊牧民系と言うか、遊牧民の血筋を濃くひく漢人と言うか、とにかく、アイデンティティも他者からの認識も漢人であった人達とは別に、明らかに異民族出身として扱われていた人達も、唐では高い地位を得た(例:安禄山)と言うのも良く知られた話ですが、これはまた別の話題ですね。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

oia********さん

2018/11/718:48:16

隋や唐は、近年の研究により、実は鮮卑系の血筋の家系が建国した王朝だと言われていますが、当時の皇帝たちは自身の出自を漢族であると自称しており、当時書かれた歴史書などにも、漢族の国家として書かれています。

自ら漢族であると称している者たちの王朝なのですから、わざわざ政治の中心に異民族を登用するはずがありません。当然漢族が登用されていたはずです。
というか、そもそも科挙は隋によって作られた制度であり、唐にも引き継がれていたので、役人は当然科挙などによって採用されていました。

まあ、実は異民族の家系だったという説が正しいならば、皇帝の一族は異民族の血筋という事になりますので、同じ家臣でも皇帝の一族は異民族出身という事にはなったと思います。
ただ、注意すべきこととして、異民族の血筋だったという説が正しいとしても、彼らは何世代も前に中国内部に侵攻して、そこに住み継いでいた者たちの子孫なので、漢族との混血も相当進んでいたはずです。
ですので、見た目だけで異民族とは見えなかったはずですし、当の皇帝本人たちも本気で自分たちは漢族だと思っていた可能性もあります。

そもそも、五胡十六国時代の広範な異民族の侵入により、中国全般でかなりの混血が起こっており、当時の中国では先祖を遡れば異民族の血筋になるという者は少なくありませんでした。

いずれにしても、隋や唐に仕えた役人たちは、科挙などによって登用された中国内地の者たちだったと言えます。
それらの者たちの中には、混血により結果的に異民族の血筋だった者も少なからずいたと思われますが、少なくともわざわざ異民族を政権の中枢に入れるような事は行われていませんでした。

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