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中国史に関する質問です。 創元社から出ている『図説中国文明史4 秦漢 雄偉なる...

sin********さん

2018/11/2609:18:13

中国史に関する質問です。
創元社から出ている『図説中国文明史4 秦漢 雄偉なる文明』の187ページ、「ローマのガラス容器」の解説に

西暦100年、ローマのアントニヌス朝は使者を漢に派遣した。

使者は洛陽にいたり、和帝に贈り物を届けた。和帝は使者に最高の栄誉である「紫綬金印」を贈った。このときからローマ帝国と漢との間に正式な通商関係が結ばれた。

とあるのですが、これは何の文献に書かれていることなのでしょうか。甘英がローマに派遣されるも途中で引き返す(97年)や大秦国王の使者を称する人物がベトナムに来る(166年)とは別の出来事のようですが、教科書にも出てこないし、この本の巻末の年表にも載ってないのですが…。最近の考古学とかで分かった事実なのでしょうか?誰か知っている方はいらっしゃるでしょうか?

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ste********さん

2018/11/2701:02:11

>西暦100年、ローマのアントニヌス朝は使者を漢に派遣した。
>使者は洛陽にいたり、和帝に贈り物を届けた

『後漢書』には、そういう記録は無さそうです。

>大秦国王の使者を称する人物がベトナムに来る(166年)

こちらは『後漢書』にしっかりと記録があります。

【至桓帝延熹九年,大秦王安敦遣使自日南徼外獻象牙、犀角、玳瑁,始乃一通焉。】

西域伝の大秦国の条の記録ですが、延熹9年(166年)に日南郡にやってきた
とあります。
「始乃一通焉」とあるので、ここから交流が始まったというふうに解釈できます。

本紀のほうでも桓帝紀のところの、延熹9年の9月の記事に
【大秦國王遣使奉獻。】
とあります。

では、100年というと、和帝時代の元号では永元12年に該当します。

一応、『後漢書』の和帝紀の永元12年の記録を見てみましたが、
とくに大秦関係と思われる記録はありませんでした。

>和帝は使者に最高の栄誉である「紫綬金印」を贈った。

この部分にだけ注目すると、それらしき記録はありました。

【冬十一月,西域蒙奇、兜勒二國遣使內附,賜其王金印紫綬。】

一応。永元12年の記録です。
和帝時代に、金印の話が出てくるところは、ここしか無いようです。

どうやら「蒙奇、兜勒」という国がローマ帝国という説があるみたいです。
中国語のウィキペディアを少し見たところ、
「蒙奇兜勒」はラテン語のMacedonesのことじゃないか、
ということで、要するにマケドニアの音訳という説みたいです。

それで、ローマ帝国からの使者が来たのだという説になっているみたいです。
日本ではあまり聞いたことが無い説のため、わりと珍説なのではないかと
思います。

ちなみに、100年というと、ローマ帝国ではトラヤヌス帝の治世にあたります。
アントニヌス朝と単体で扱った場合は、一般的にアントニヌス・ピウス帝~
コンモドゥス帝までを指します。

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83...

トラヤヌス帝まで含めたければ、ネルヴァ・アントニヌス朝と呼びます。

ですから、間違っているとまで言い切れないのですが…。

質問した人からのコメント

2018/11/27 02:29:06

あー、たぶんそれですね。当時マケドニアはローマの支配下でしたからね。
ローマからの使節と言えるのかは怪しい記述ですが、年も合っているので執筆者が言っているのはこの出来事で間違いなさそうですね。

この記述は私は全く知りませんでした。
ひとまず謎が解けました。回答ありがとうございました。

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