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ヴィクトール・フランクルの父母の職業って何ですか?

mac********さん

2018/12/206:33:53

ヴィクトール・フランクルの父母の職業って何ですか?

補足また、解放された後どこに移り住んだんですか?

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mok********さん

2018/12/207:36:31

フランクルの父は書記の仕事だったんじゃないかな。
1946年ウィーン市立総合病院神経科部長に就任http://www.earthship-c.com/Viktor-E-Frankl.html
フランクルはウイーン駅のすぐ近くの家で生まれ育ってますね。夜と霧で
移送列車の中、一人の囚人が窓を独占してしまってて見せてくれない。
ウイーンに列車が近づいた時「お願いだ。僕にも窓を見せてくれ。
生まれ育った家があるんだ。もう一度あの家を見たい」
と言ったら「なんだ。それならお前はもう何十年もこの景色見てきたんじゃないか。俺は初めてなんだぞ。俺に見させろ」と言ってどいてくれなかったです。
こんなこと書いてあります。
フランクルの幼少期

フランクルは、1905年オーストリアの首都ウィーンに生を受ける。

父ガブリエルは医師を志しながら家庭が貧しく、夢を叶えられなかった。性格は厳格で仕事は国家公務員であった。母エルサは貴族出身の優しい人だった。フランクルが医師を目指すことを知った父は喜んだ。フランクルは3歳の時、すでに医師になることを決心していたという。




4歳の頃にフランクルの未来を予感させるエピソードがある。ある夜、眠りに入ろうとして飛び起きた。

「自分もいつか死なねばならないと気づいたからである。しかし私を苦しめたのは、死への恐怖ではなく、むしろただひとつ、人生の無常さが人生の意味を無に帰してしまうのではないのか、という問いであった。」(『フランクル回想録 20世紀を生きて』 春秋社)

フランクルは4歳にして「人生の意味」を問う経験をしているのである。極めて早熟な哲学者といえよう。ある避暑地で出会った女性教師は、彼のことを「思想家さん」と呼んでいた。

16歳でフロイトと文通

高校生だったフランクルは、夜、成人向けの学校に通った。そこで心理学を選択する。その時フロイトに関する講義があり、興味を持った彼はフロイトに手紙を書く。すると返事が来た。16歳だった彼はフロイトと文通をすることになるのだ。

当時、フロイトといえば精神分析学会の頂点に君臨している人物である。驚くことに、名もなき10代の少年に対してフロイトは、3日以内に必ず返事をくれたという。

この文通で、フランクルはある時、短い論文を手紙に同封した。するとフロイトの推薦もあり、フランクルの論文は1924年『国際精神分析ジャーナル』に掲載されることになる。

後年、医学部の学生となっていたフランクルは街でフロイトらしき人物に出会う。声をかけるとまさしくその人物はフロイトであった。フランクルとの文通を覚えており、フロイトはフランクルの家の住所を暗誦したという。恐るべき記憶力である。

アドラーに破門される

近代精神分析学の開祖フロイトには、師弟関係といえるふたりの人物がいた。ひとりは分析心理学の創始者ユングであり、もうひとりが個人心理学の提唱者アドラーだ。「心理学の三大巨頭」といえば、フロイト、ユング、アドラーである。

高校生の時、フロイトと文通したフランクルは、長じて個人心理学の創始者アドラーに傾倒していく。

ウィーン大学へ進学し医学生となった彼は、精神科医を志す。フランクルはアドラーが創設した個人心理学協会のメンバーとなり、最年少ながら20歳の時には『国際心理学年報』に論文が載る。論文のタイトルは「精神療法と世界観」であった。

しかしフランクルは、やがてアドラーの考えに疑問を抱くようになる。フランクルはこう述べている。





アドラーは師といえるフロイトに異を唱え、フロイトから離れていった。フランクルも同じであった。歴史は繰り返されたのである。

ナチスの強制収容所へ、そして『夜と霧』

アドラーと袂を分かったフランクルは、1929年(24歳)、「青少年相談所」を開設する。抑うつ状態の若者たちを対象として匿名で相談が受けられる場をつくった。

この相談所は好評で、後にヨーロッパの6都市に相談所が設立される。講演活動に飛び回りながらも、フランクルは悩める人々の声に耳を傾け、臨床実践の場に重きを置くようになっていく。

数多くの臨床経験を積んだフランクルは、1939年、34歳の時、満を持して個人開業する。しかし時代は、第二次世界大戦が始まろうとするきな臭い状態になっていた。

ユダヤ人であるフランクルは、アメリカ行きのビザを手に入れるが両親のことを考えウィーンにとどまる。1941年の時点で1度収容を延期されたが、最終的には、1942年9月ナチスの強制収容所へと運ばれ、壮絶な体験をすることになる。

最初に収監されたのはテレージエンシュタット収容所である。ここで約2年の時を過ごし、44年10月、アウシュビッツ収容所に移送される。フランクルはアウシュビッツで生死を分ける「選抜」を受ける。ガス室に送られか否かである。「死」か「生」かである。フランクルは「生」の選抜を受け、到着から数日後、アウシュビッツ収容所からダッハウ収容所へと送られる。

45年3月志願してテュルクハイム病人収容所へ赴き、その約一ヶ月後の4月に解放される。ヒトラーは同年4月30日に自ら命を絶ち、5月にドイツが無条件降伏をする。約3年間にわたる収容所での生活であった。

世界的ベストセラー『夜と霧』は、アウシュビッツへの移送から45年に解放されるまでの体験を綴ったものである。

『夜と霧』の、それから

収容所から解放されたフランクルは地獄に突き落とされる。父や母が、そして愛する妻までが、収容所で亡くなっていた。だが、この過酷な運命に彼は負けなかった。

1946年ウィーン市立総合病院神経科部長に就任。そして、収容所で取り上げられた原稿の再生にとりかかる。これがフランクルの処女作であり、フランクル心理学「ロゴセラピー」の骨格が示された『死と愛』(みすず書房)だ。同年、2〜3週間で書きあげたと伝えられる『夜と霧』(みすず書房)が完成する。
『夜と霧』は邦訳名であり、『ある心理学者の強制収容所体験』が原題だ。英訳は『意味を求めて』(「Man's Search for meaning」)。米国では1985年時点で、発行部数200万部を越えた。フランクルは世界的な名声を得るようになり臨床経験をさらに重ね、「ロゴセラピー」の思想体系を磨き上げていく。

1980年には第1回世界ロゴセラピー会議が開催される。晩年は失明状態でありながらも講演活動を行った。バイタリティにあふれる人物像は老いても変わることがなかった。

1997年9月2日に逝去。享年92歳



1933年から、ウィーンの精神病院で女性の自殺患者部門の責任者を務めていたが、ナチスによる1938年のドイツのオーストリア併合で、ユダヤ人がドイツ人を治療することが禁じられ、任を解かれた。1941年12月に結婚したが、その9ヶ月後に家族と共に強制収容所のテレージエンシュタットに収容され、父はここで死亡し、母と妻は別の収容所に移されて死亡した。フランクルは1944年10月にアウシュビッツに送られたが、3日後にテュルクハイムに移送され、1945年4月にアメリカ軍により解放された。その後1946年にウィーンの神経科病院に呼ばれ、1971年まで勤務した。1947年にエレオノール・キャサリン・シュヴィンと再婚している。50年以上に渡り、仲睦まじい夫婦であっただけでなく、彼女はフランクルの学問的な協力者でもあった。その辺の事情は、『それでも人生にイエスと言う』に詳しい。

フランクルの父は書記の仕事だったんじゃないかな。...

質問した人からのコメント

2018/12/7 01:48:20

回答ありがとうございます!

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