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桶狭間の合戦時 斎藤家は 織田ト同盟結んでなかったのですか 織田領が取られれ...

ta1********さん

2018/12/1613:02:37

桶狭間の合戦時
斎藤家は
織田ト同盟結んでなかったのですか
織田領が取られれば次は自分と
思わなかったのですか

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san********さん

2018/12/1618:05:58

おそらく斎藤義龍は織田がやられたら次は自分というよりも、信長が義元と戦っているうちに尾張の半分は掠め取ってやろうと考えていたのではないでしょうかね。

斎藤道三は1556年に息子の義龍と争って敗死しており、このころから斎藤家と織田信長とは敵対関係に入ったようです。信長は道三への援軍を派遣しましたが間に合いませんでした。


信長が庶兄の信広や弟の信勝(信行)と家督を争ったことは知られていますが、義龍が裏で手を引いていた可能性があります。織田家の家督争いを内部的要因で考えれば彼らの父信秀の急逝した1552年直後の方がむしろ不安定であったはずなのですが、信広の謀反は1556年、信勝の謀反は1558年と、信長が清州城を奪取して当主としての力量を見せた後のことです。通説にあるように「信長がうつけだったので織田の家臣が行末を不安視したため」という解釈には疑問の余地があります。

いずれの謀反も道三が死んだ1556年以降に発生していることを考慮すると、斎藤義龍が尾張を撹乱するために調略を仕掛けたとも考えられます。


また斎藤、織田、今川の三家の国力を慶長期の石高から推測すると、美濃、尾張がおよそ50万石、駿河、遠江、三河は合わせて75万石ほどです。信長が尾張を完全掌握していたわけではないにしろ、真っ正直にぶつかり合った場合は織田家が今川家に粉砕されるというほどの国力差はなかったのではないかと思います。

桶狭間の合戦で信長が劣勢であったのは、むしろ斎藤家と今川家からの挟撃状態にあるため、多くの戦力を美濃への守備に回さなければならなかったからではないでしょうか。つまり、意図的にか間接的にかは分かりませんが、桶狭間への戦況は斎藤義龍が絡んで作り出されていたのです。


こうやって考えると、信長が決戦ギリギリまで清洲城を動かなかったこと、今川義元の首級を挙げても織田軍が深く追撃をしなかった理由が見えてくるように思います。



信長はこの挟撃に対して近江の六角氏と同盟を組み、斎藤義龍を牽制していたようです。名古屋市長福寺の所蔵する桶狭間合戦の戦死者名簿には、近江佐々木氏(六角氏)の援軍があったことが記され、織田方の戦死者1000人ほどのうち4分の1が援軍であったそうです。

桶狭間の合戦の後まもなく、近江で動きがあり、国人の浅井氏が六角氏を破って琵琶湖東岸で勢力を固めます。六角氏が美濃への牽制力を失ったことで同盟の再編がおこり、斎藤=六角、織田=浅井の同盟が形成されていくことになります。

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nad********さん

2018/12/1614:25:38

六角と手を結んだわけです。
信長も今川を相手にするため六角と手を結んでおり、桶狭間では六角の援軍を得て勝利しています。

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