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なぜ、ロンドン海軍軍縮会議の全権大使が当時の浜口雄幸内閣の外務大臣である幣原...

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ID非公開さん

2019/1/1709:49:30

なぜ、ロンドン海軍軍縮会議の全権大使が当時の浜口雄幸内閣の外務大臣である幣原喜重郎ではなく、若槻礼次郎なのですか?

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18
回答数:
2

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ベストアンサーに選ばれた回答

kor********さん

2019/1/1711:13:47

先の回答者間違ってるよ。
憲政会から名前を変えたのが立憲民政党だから対立してないし、
国の決まりとして時の総理大臣が襲撃され退陣する時は同じ政党から出すないといけない。(テロに屈することになるから)

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    質問者

    ID非公開さん

    2019/1/1712:16:06

    じゃあ、先の回答者の主な理由1番だけが合ってるということですか?

返信を取り消しますが
よろしいですか?

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ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

kir********さん

2019/1/1710:49:33

1つに若槻礼次郎は、先の内閣総理大臣(1926年1月~27年4月)で 憲政会の総裁でした。
幣原喜重郎は この内閣の外務大臣で若槻に任命された関係にあるので、若槻をさしおいて全権になるわけには、長幼の序列上、絶対にできません。

2つに、、ロンドン軍縮会議(1930年1月~4月)時の総理大臣は浜口雄幸であり、若槻と対立する立憲民政党です。
対立する政党のトップを 勲章と爵位をエサに 外交の分野に体よく追い出すために全権にしたてて国際会議に送り出したのです。

前回1922年のワシントン会議のようには、軍縮合意は 簡単にはいかなかったのですが、若槻全権には、うまく部内をまとめることすらできなかった、といいます。
しかし、総トン数の対米比率だけで見ると、前回は主力艦で10対6だったのに、ロンドンの補助艦では、6.975まで盛り返したので、少しは威張れた成果でした。

それが帰国後、統帥権干犯問題を引き起こして、浜口が襲撃され、遭難・死亡する羽目になり、その崩壊後(1931年4月)には 代わって若槻が第二次若槻内閣を編成することになるのは皮肉なものです。

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