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石田三成は戦下手だ・・・と言われるのは明智光秀は戦下手だというのと同じではな...

pea********さん

2019/1/2708:00:35

石田三成は戦下手だ・・・と言われるのは明智光秀は戦下手だというのと同じではないでしょうか。

明智光秀は天王山を小一郎に制圧されて山崎の戦いに敗れたとされます。

三成の場合は松尾山を裏切りで取られて、東軍に挟撃されて壊滅されたとされます。

関ヶ原の戦いではさらに、島津1000の攻撃で井伊・松平忠吉が致命傷を受けるなど戦線が伸びきっており、南宮山や松尾山の動きではどうなるかわからない脆弱な布陣であったことは疑いようがありません。

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ベストアンサーに選ばれた回答

mit********さん

編集あり2019/1/2801:00:53

質問の意図がわからないのでなんとも言えませんが…

とりあえず石田三成が徹底的に戦下手かと言われればそういうわけではありません。
実際に三成は関ヶ原本戦こそ大敗していますが、それまでの前哨戦ではほぼすべて徳川に打ち勝っています(実際には三成が強かったと言うより、その家臣や与力の面々の頭が良かっただけだと思いますが、それを言ってしまうとほぼ全ての戦国武将が当てはまってしまうので割愛します。)。
忍城攻めは成田軍が規格外に粘り強かったこと、三成が備中高松での秀吉への羨望が強過ぎたこと、大将としての布陣は初めてだったことなどから考えて、三成の采配技術を量るには適さない戦です。
そもそも水攻めは秀吉のゴリ押し説すらありますし。
とは言え、石田三成は関ヶ原本戦直前に徳川に夜襲をかければ打ち取れる可能性が極めて高い千載一遇のチャンスがあったにもかかわらず、正面から勝たなければ意味が無いとそれを棒に振っているので、考え方自体は戦に向いていなかったと思います。

また明智光秀も彼が弱かったと言うより、秀吉が強かったと考えた方がいいと思います(私は本能寺の変は秀吉黒幕説を信じていて山崎まで出来レースだと思っているので、この考え方はあれですが。)。
理由は諸説ありますが、本能寺の変を光秀の独断と考えるなら、起こしたタイミングから考えて、光秀は羽柴、柴田、丹羽、徳川辺りの有力大名が自分を攻めてくるまでどれくらいの時間がかかるかをすべて計算していたと思います。
単に秀吉が馬鹿みたいに早かっただけです。
歴史書を鵜呑みにするなら、光秀は学問にも優れ、いくつもの戦で大軍を率いて勝ち抜いている名将なので、決して戦下手ではないと思います。


また、三成と光秀両方に言えることとして、戦が下手だったというより調略を失敗したと言った方が妥当だと思います。
結局、戦の勝敗は大将の智よりも数で決まる部分が多いですから、互いに地の利がない場所で戦う以上1人でも多くの大名を味方につけた方が勝ちます。

光秀も味方についてくれるだろうと高を括っていた細川が明智軍にいれば山崎の戦いは変わっていたでしょう。
三成は…単に家康より人望がなかっただけだと思いますが、そもそも小早川の裏切り自体、家康との密約より最前線の吉川が動かなかったことが大きいので、吉川を味方につけきれなかったことが敗因です。

また島津の話は撤退時の話なので、戦の勝敗云々とは関係ありません。

質問した人からのコメント

2019/1/31 19:32:37

みなさま、回答ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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bir********さん

2019/1/2713:29:25

谷口研語さん著「明智光秀」では、
光秀が本能寺の変おこす、すこし前に出した
明智軍法を紹介していました。それを調べた
著者の感想では、とくに優れた軍法でない、
どころか、ほんまに、こんなもんで合戦
を明智が、やってたんだとしたら明智光秀
って合戦が、そんなに得意では、ないんで
は、ってことでした。

ton********さん

2019/1/2713:11:06

石田光成は逆に関ヶ原ではよくやりました 家康側は皆出てきて戦っていましたが、石田方は、石田、宇喜多、大谷など一部です 島津、吉川は動かず、毛利も
大阪城にいて、それでも五部以上に戦っていたのは、逆に戦上手といえるかもしれません 負けたのは、小早川の心をつかめなかったからです 相手の心理をつかむ能力が家康の方が一枚上だったという事でしょう まー、それも含めて戦といわれれば、そうですが
明智は、もともと謀反人という弱い立場ですから、そのまま勝ち進むこと自体
所詮むりな話しだったと言えます 信長への怨恨から、チャンスで本能寺で殺してはみましたが、その先の入念なプランなど最初からなく、一応生き残りをかけてもがいてはみましたが、彼にとっての最大の目標は信長を殺す事にあったと思われますので、彼はそれを達成できたのですから、満足して死んでいったかもしれませんよ

mrt********さん

2019/1/2712:39:07

勝ち続けたが最後の1戦に敗北してしまった武将と、最後まで負け続けた武将を同列に語ってはいけない。

dok********さん

2019/1/2710:39:08

山崎の戦いで光秀は謀反人として完全に人望を失ってたので戦下手と言うよりも負けて当然でした。
秀吉軍とは軍勢の数も違います。
光秀の計画性の甘さはありますが、光秀以上に秀吉の行動力が優れていました。
光秀は丹波を平定するのに4年かかってしまいましたが、亀山城をはじめ八上城、黒井城攻撃を成功させるなど城攻めは得意でした。
石田三成については忍城を落とせなかった例もありますが関ヶ原では黒田、細川、加藤、田中軍から集中攻撃を受けても蹴散らす強さがありました。
統制がとれた石田隊は意外と強く、今は戦下手の評価は見直されています。
それと西軍全体の陣容も見事でしたが機能しなかったです。
忍城は水攻めするのには難しい地形で、あれは秀吉からの指示と言われています。
関ヶ原は松尾山と南宮山が西軍のために戦えばどうなっていたかわかりません。
明智光秀と石田三成が敗れた原因は戦下手ではなく、相手の方が人望があったから敗者になってしまったと思います。

lok********さん

2019/1/2708:11:39

違います。

少なくとも光秀には統治能力があり謀反でもついてくる家来がいた人望がありますがね。

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