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「暗黒時代のニューヨーク・ヤンキース」と言えば誰を思い出しますか?

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ID非公開さん

2019/2/2017:43:08

「暗黒時代のニューヨーク・ヤンキース」と言えば誰を思い出しますか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

2019/2/2020:56:58

ニューヨーク・ヤンキースのいわゆる”恥の時代”(The Blunder Years, The Dark Ages)と呼ばれる時期は2つあります。


一回目は1965~1975年までの12年間。
この間、ヤンキースはワールド・シリーズ優勝どころか1969年から開始された地区制度でさえ一度も優勝できませんでした。
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1960~1964年にかけてヤンキースはア・リーグで5年連続優勝。うち3回はワールド・シリーズで優勝しました。
しかしヤンキースは1964年のリーグ優勝監督でチームの英雄だったヨギ・ベラをシーズンオフに解任し、後任になんとワールド・シリーズで負けたカージナルスのジョニー・キーン(添付写真)を監督にすえ、さらに筆頭オーナーが3大テレビネットワークのひとつ;CBSに変わった(約1300万ドルで買収された)時から暗黒時代が始まりました。

1965年のヤンキースは77勝85敗でリーグ6位(10球団中)。ヤンキースがシーズンで負け越したのは40年ぶりという不名誉でした。
MLBではこのシーズンからドラフト制度がスタートし、金と権力にものを言わせて取りたい学生は力づくでも獲得する、という手段もとれなくなりました。

キーンの’上から目線’の指導スタイルはヤンキースの文化に全くマッチせず、多くの選手達から不満の声があがりました。翌1966年、開幕20試合時点で4勝16敗という悲惨な成績になったところでキーンは解任されました。

後任監督として1961~63年までリーグ三連覇を達成したラルフ・ハウクが監督に復帰しましたが、ハウクをもってしてもチームの低迷を解消することはできませんでした。
1966年のヤンキースは70勝89敗でア・リーグ最下位(10チーム中10位)。チームがヤンキースと改名した1913年以後では初の最下位となり、1965年よりひどい汚点となりました。

このころ、かつてチームの黄金時代を支えていた多くのレギュラー選手がロートル化したり怪我で全盛期の活躍ができなくなり次々と引退したりトレードでチームを去りました。
ミッキー・マントルは1968年で引退。ロジャー・マリスは1966年オフにカージナルスにトレード。ホワィティ・フォードは腕を痛めて1967年に引退など。

ヤンキースはチームのスター選手に大金を支払う一方、1960年代になるとマイナー・システムへの投資を切り詰め始めたり、他のチームが積極的に起用していた黒人選手や中南米選手の獲得にも依然として消極的でした。
さらに1950年代には ”実質的なヤンキースのファーム・チーム” と揶揄されていたカンサスシティ・アスレチックスで、新オーナーにチャーリー・O・フィンリーが就任するとヤンキースとの’腐れ縁’を完全に遮断したことも痛手でした。

この時代のヤンキースにはメル・ストットルマイヤー投手(通算164勝)、ボビー・マーサ外野手などのオールスター・クラスの若手もいましたが、その他にはなんでこんな選手がヤンキースに?という選手も多くいました。
例えば、あまりにもチャランポランな性格でヤンキースを追放されたジョー・ペピトーン一塁手(その後NPBのヤクルトに入団したが、いまだに史上最悪の外国人助っ人選手と言われている)。
1968年に打率.195でショートのレギュラー(!)だったトム・トレッシュ選手など。
後にブレーブスで大監督となり殿堂入りしたボビー・コックスは1968~69年にヤンキース三塁のレギュラーでしたが、打率は2割ちょっとで本塁打も2年間で計9本だけ、とかつての”ブロンクス・ボンバーズ”とは思えないひどい状態でした。

1970年にチームの新人王になったサーマス・マンソン捕手など若手の台頭でそのあとはいくぶんチーム成績も向上しましたが、1973年限りでハウク監督もついに解雇。ビル・バードンが後任監督になりましたが、1973年が地区2位、1974年が地区3位とすこしたりず、バードンもこの年のオフに解雇されました。

この時のヤンキースの”恥の時代の象徴”としてよく取り上げられる映像は、ボビー・マーサ中堅手がフェンス際に落ちたボールが、ちょうど当時のヤンキースタジアムにあった3人のレリーフ(ルース、ゲーリッグ、ハギンス)の間をまるでピンボールのよに転々と跳ね返り、マーサはただあたふた狼狽するだけ、というものです。

https://youtu.be/OWPyz5l6BQ8?t=1620

テレビ放送では一流のプロでも、ベースボールの経営にはまるで素人だったCBSは結局1973年に買収値よりも約300万ドルも安い1000万ドルで 当時クリーブランドで造船業者だったジョージ・スタインブレナーに球団を身売りしました。
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二回目は1982~1995年までの14年間。
この間、ヤンキースはジョージ・スタインブレナー・オーナーの独裁政権がいきすぎ、監督もコーチもレギュラー選手も、俺に気に食わないことを言うなら即クビ!とうひどい経営をしていたため、一度も地区優勝できませんでした。
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ヤンキースは1970年代後半に大物FA(レジー・ジャクソンなど)を入れて大成功した過去を忘れられず、その後も次々と他球団の大物FAの獲得にチーム戦略を絞りこみすぎたため、ファームの若手が昇格できず。ファームに有望株がいても、他球団のいい選手との交換で芽が出る前にヤンキースを去る、というパターンが慢性化しました。

FAで入団した選手は、その直前までの成績が選手寿命のピークという例も多く、ヤンキースに来て成績を落とす選手、ヤンキースでがんばらないとと意気込みすぎて成績が出せない選手、地方都市でノンビリプレーできていたのに、ニューヨークのあまりにも多すぎてうるさすぎるメディアとの付き合いに精神的にまいってしまう選手などが続出しました。

ビリー・マーチンのように短期間で就任と解任を繰り返すような人事も横行し、まるで回転ドアのようにいそがしいだけの球団とバカにされていた時期もありました。

1980年代中盤、チームNo.1の人気選手はドン・マッティングリー(現;マーリンズ監督)でした。1985年にはシーズン238安打、打率.324、ゴールド・グラブ(一塁)を獲得。1987年には7試合連続本塁打のMLB記録を達成するなど、ヤンキースの再建と将来の殿堂入り候補選手と期待されましたが、1989年ごろから慢性的な背中の痛みに悩まされ、その後は凡庸なプレーヤーに降格。1995年に引退しました。

1980年オフにパドレスのオールスター選手だったデーブ・ウィンフィールド選手と10年契約1000万ドルという当時としては超破格の契約を締結。しかしウィンフィールドは毎年春先だけは成績がよいが、優勝争いとなる肝心の秋場になるとこれも毎年のように成績が急降下するというシーズンを繰り返し、スタインブレナー・オーナーからは毎年のように罵倒される始末でした。

1990年に67勝95敗でリーグ地区最下位。勝率 .414は1913年以後最低の数字でした。先発で2桁勝利をあげた投手はゼロで、Tim Leary投手は9月中旬に9勝19敗となった時点で、
”ヤンキースで20敗投手が出たなどスタインブレナー・オーナーに報告できるか!”
としてシーズン終わりまでLearyは怪我をしたわけではないのに、実質的に出場停止となりました。
ヤンキースタジアムにはこのころ、
”スタインブレナーは辞任しろ!”
”1950年代は他球団から「くたばれ!ヤンキース」と言われたほど強かったが、今は本当に「くたばってしまったヤンキース」になった”
などのヤジやバナーが頻繁に出ていました。

そしてスタインブレナーは1990年7月、ギャンブラーとのあやしい取引をコミッショナーに断罪され、1992年末までオーナー資格停止という重罪処分を受け一時的に球界から身を引いていました。
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ここで、当時名目上の肩書はGM、実質的には代行オーナーとして球団の再生に動き始めたのがジーン・マイケルでした。

マイケルは、それまでの大物FAに頼るチーム編成方針を改め、ファームの若手育成に重点を絞る方向に舵を切り換え始めました(バーニー、ジーター、リベラ、ペティット、ポサダの「ファブ・ファイブ」はこの時に誕生した)。

さらに当時の最新SABR戦略の一環として、
”とにかく相手先発投手にはたくさんの球を投げさせる(疲労やポカを待つ)。早打ちはしないこと。”
という方針をマイナー含めて徹底させました。

そしてトレードも、他チームでたまたま潜在能力を発揮できていない中堅選手にポイントを絞ることで安価でいい選手を取ることができました(ポール・オニールやティノ・マルチネスなどはこの例)。
こうして徐々にチームの体制は改善。1996年にジョー・トーレが新監督に就任してから、ヤンキースの黄金時代は復活したのです。

ニューヨーク・ヤンキースのいわゆる”恥の時代”(The Blunder Years, The Dark...

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自由人さん

2019/2/2119:40:34

ヤンキースがまったく地区優勝できなかった時代
(1980年代後半から1990年代前半)

4番を張り続けた「ドン・マティングリー」でしょう!

まことさん

2019/2/2020:46:56

質問の趣旨とは違うかもしれませんが。
井川慶投手を思い出してしまいます。また、伊良部投手もヤンキースでなければもっと気持ちよく投げれたかと思います。
そういえば元西武前田投手もいましたね・・・。

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