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多念、一念のどちらが正しいかという議論があったそうですが、浄土真宗では結局ど...

dod********さん

2019/3/1803:11:58

多念、一念のどちらが正しいかという議論があったそうですが、浄土真宗では結局どちらに落ち着いてるのでしょうか

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waw********さん

編集あり2019/3/1823:05:42

専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義である

「浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。 」(親鸞『一念多念証文』)

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youichi5959さん

2019/3/1921:49:53

阿弥陀如来はどんな人をも必ず救い摂ると誓われていることをよく
知らねばこの言葉を理解できません。

大変な問題を投げかけられた言葉ですから長文は免れません。
まだまだ書きたいところですが割愛いたします。




『なぜ生きる』p341より。

親鸞聖人が「一念」といわれる言葉には、二つの意味がある。
人生の目的を成就した「無碍の一道」を「一念」と言われるときと、
その弥陀の救いの速さを「一念」と説かれるときである。
弥陀の救いを聖人は「極促の円融」と言われている。
「極促」とは、“きわめて速い”こと、「円融」とは“完全無欠”という
ことだ。
救いに時間がかかっては「極促」と言えないし、完成がなければ「円融」
と言われない。
「一念」とは、これ信楽開発の時尅の極促をあらわす(聖人:教行信証)
【意訳】
「『一念』とは、人生の目的が完成する、何億分の一秒よりも速い時を
いう」
“人間に生まれたのは、これ一つであった”と、人生の目的が成就したの
を「信楽開発(かいほつ)」と言い、その分秒にかからぬ速さを「時刻の
一念」と言われている。まさに極促円融といわれるゆえんであろう。


ではなぜ弥陀の救いは、こんなに速いのか。
覚如上人(親鸞聖人ひ孫さん)は、こう明かされている。

「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願と
せば、命一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」(口伝鈔)
【意訳】
弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人
を眼目とされている。
もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。一念の
救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ」

いかに一念の救い(一念往生)を親鸞聖人は強調されたか。
「真宗の肝要、一念往生をもって、淵源とす」とまで言われている。
「寛容」も「淵源」も、これ以上重い表現はないからである。

古来、この「一念」の切れ味をあらわすのに、「明来闇去 闇去明来」
といわれている。
明りが来たのが先か、闇が去ったのが後か、闇がなくなったのが先か、
明るくなったのが後か。どちらも正しくないが、いずれともいえる。
筆舌では同時に表現できないからである。

それで親鸞聖人は、仮に一念を「前念」と「後念」に分けられて、
前の生命が死に、後の生命が生まれるとき、とつぎのように説かれる。

本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり(愚禿鈔)
【意訳】
「助かるだろうか」の後生暗い心が死んだ時(前念命終)、「救われたこ
との不思議さよ」と後生明るい心が生まれる(後念即生)。
「心の、臨終と誕生の同時体験」させられる時、と言われている。

中略

帰命の一念を発得せば、そのときをもって、娑婆のおわり臨終とおもう
べし」(覚如上人:執持鈔)
【意訳】
「無明の闇が破れたときが、心の臨終、葬式である」

弥陀の救いの一念を表現された、覚如上人の言葉である。
後生明るい心の生まれたときを、「帰命の一念発得」と言い、その時に
苦しめてきた後生暗い心が死んでしまうから、「娑婆のおわり臨終」と
言われている。
長らく苦しめてきた親玉を「生死流転の本源」と言い、無明の闇を
「自力の迷情」と言いかえて、鮮やかな一念の弥陀の救済を、見事な
筆致でこうも記されている。

この娑婆生死の五蘊所成の肉身、いまだ破れずといえども、生死流転の
本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念に破れて、知識伝時の仏語
に帰属するをこそ、「自力を捨てて他力に帰する」ともなづけ、また
「即得往生」ともならいはんべれ(覚如上人:改邪鈔)
【意訳】
「肉体の生きている時に、遠い過去から苦しめてきた『自力の迷情』が、
他力(弥陀の救い)の信心を得た一念に死滅して、“弥陀の誓願まことだっ
た”と知らされたのを、“仏法を聞いた”というのである。
その時を『自力を捨てて、他力に帰した』とも、『往生を得た』とも
いわれるのだ」

摩訶不思議なこの一念を、親鸞聖人は、「生きる目的」と「生きる手段」
を峻別する、分水嶺だと喝破されている。

「身・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す(聖人:教行信証)
【意訳】
本当の目的を知らないから、“よくぞ人間に生まれたものぞ”の生命の歓喜
がないのである。


後略


以上、『なぜ生きる』p347まで。



「身・仮を知らざるによりて」
真を「生きる目的」
仮を「生きる手段」=「生き方」=「どう生きる」

とされるのであります。


「多念」とは。
阿弥陀仏の本願文に「乃至十念」と誓われているから「乃至」は数を
問わずということで一念で救われた者には、数を問わないから、お礼の
念仏称えさせて見せる」と誓われている、と親鸞聖人は釈尊の
『大無量寿経』の願成就文のお言葉を通して解説なされている。

「横超」とは、すなわち願成就一実円満の真教真宗これなり(教行信証)
【意訳】
阿弥陀仏の真実を背負う釈迦の「本願成就文」の重さを、聖人はこう
道破される。
「本願成就文」は阿弥陀仏の本心(十八願)を明らかにする、時空を超え
た唯一の指針であり、完全無欠でゆるぎない真実の教えである。
される。

よって『教行信証』はじめ多数にのぼる聖人の著作は、すべて釈迦の
「本願成就文」の解説書である。
だから『歎異抄』は親鸞聖人の『教行信証』を通して解釈せねば到底
理解できる書ではない。


親鸞聖人は34歳の時、法然門下三百八十余人の同朋と大きな諍いを
なされたことは有名である。
信行両座の諍論である。法然上人ご臨席の下でなされたから同朋たち
の衝撃と動揺は激しかった。

以下を参照して下さい。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q101848781...


自力の念仏では弥陀の浄土へは往けぬぞ。
「聞其名号 信心歓喜」させられた一念で現在世も未来世も同時に救
われるのだ。と法然上人は三大諍論を通して三百八十余人に仰ったの
のです。


誤字あればお許し下さい。

ohn********さん

2019/3/1804:47:45

一念三千は天台摩訶止観に説かれていますが、親鸞は比叡山で勉学に励んだので一念ですが、西暦350年頃西安で漢訳されたのが、阿弥陀経 妙法蓮華経 で、阿弥陀経は西暦1300年代迄 それ以降は妙法蓮華経でお釈迦様の説法中退席したのが、卍ファシスト 架空阿弥陀仏信者でハーケンクロイツはドイツが第一次大戦で青島を取られたので、南無阿弥陀仏 と言う中国禅宗から裏返しで知的財産料回避で頂いたものです。

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zvs********さん

2019/3/1803:42:56

この地球上では阿弥陀如来の誓願の法が唯一極楽浄土に往生できる方法ですから、阿弥陀如来への一念です

でも他の諸仏も拝みますけどね

nak********さん

2019/3/1803:33:50

一念義。
真摯に弥陀の救済を願うのみ。

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