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始皇帝の秦がマッハで滅亡したのに、高祖の前漢は比較的長く続いたのはなぜですか?

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ID非公開さん

2019/4/319:37:14

始皇帝の秦がマッハで滅亡したのに、高祖の前漢は比較的長く続いたのはなぜですか?

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wos********さん

2019/4/400:08:26

理由と思われるものを列挙したいと思います。

1始皇帝の性格と劉邦の性格の違い
始皇帝は秘密主義で、こそこそした人でした。自分の居場所は決して人に知られたくないし、常に階段の上にいて、部下は直接始皇帝と話せず、使者が部下の言葉を伝えていたそうです。彼は直接人と接しないことが、自分の権威付けになると思ったようです。もしかしたら、人見知りだったのかもしれません。自分の子どもたちには優しかったようですが、対人恐怖症的症状があったのかも。そのくせ、行幸などをして、自分の姿を衆目にさらしたようです。が、現地の人々との交流は一切しなかったと史記に書いてあります。また、批判されるのが大嫌いでした。気に入らない者は排除する人でした。樊於期はそれで亡命を余儀なくされました。趙での民間人虐殺や坑儒もありました。扶蘇については自分の子供なので、仕事を与えて厚遇しました。家族には優しいけど、他人には厳しすぎる奴だったようです。という訳で、周囲には、皇帝の顔色を伺う佞臣みたいな人しかいなくなって、皇帝が死んだ後秦は滅んでしまったのですね。暴君がいると、その暴君が死んだ時、周囲の者達が反動で勝手をやってしまうという副作用が生じることがあるのかもしれません。「やっとこいつが死んだんだから、もうこいつの言うことなんか聞かなくて良いんだ!」みたいな。
劉邦は元が庶民というのもあり、誰とも気さくに話します。部下達は劉邦の批判を結構します。「あなたは紂王のようだ。」と言われたこともあります。感想を聞き出す劉邦も劉邦ですが…。それを劉邦は笑って受け流したそうです(その後は一応、その人に気を使い、そのようなことをしなくなったのでしょう。)。韓信も辛辣で「あなたは私より全然大した武将じゃない。」と伝えているし、陳平と張良は劉邦の足を踏むし、おそらく気さくで愛される?キャラだったのだと思います。

2秦が大虐殺したから。
秦は、商鞅以来、戦争で他国の者の首を取れば爵位が得られるという制度を取っていて、戦では大量虐殺を行うことが常でした。特に、昭襄王の時代は129万人を虐殺しました。秦王政の時代では、数の記録が残っている虐殺は二回で13万人を虐殺しただけです。王翦は虐殺をしない将軍だったようで、王翦の戦では虐殺が行われなかったようです。秦王政の時代で最も頑張った武将は王翦なので、秦王政の時代の虐殺は数が少なったようです。ですが、数を数えていない虐殺があり、王ほんが魏の大梁で行い、秦王が趙の邯鄲で行っています(秦王の母の実家と折り合いが悪かった近所の家々の者を穴埋めにした)。人々は、秦の軍隊が強かったので、仕方なく従っていましたが、実は大虐殺をした秦に積年の恨みがありました。
劉邦は、楚の懐王が「虐殺をしないように。」というので、それに従って秦を攻めました。そうしたら、秦の人々がこぞって降伏してきました。味をしめた劉邦はそれ以降も虐殺をしなかったようです。項籍が虐殺をする者でしたので、人々は劉邦につきました。ところが、項籍も子供に言われて虐殺をやめました。すると、今度は項籍に降伏する者もあらわれました。その後は劉邦の優秀な部下達の活躍で、項籍を追い詰め、滅ぼすことができました。
ということで、中国では虐殺をしない方が成功する可能性が高いので、虐殺しないことをお勧めします。

3宣伝力の差
劉邦は咸陽を落とした後、法三章を宣言し、刑罰を緩くすると宣伝しました。そのため関中の人々は劉邦を支持しました。しかし、その実、漢は秦の法令を踏襲していたので法令は厳しいままでした。もしかしたら、秦の法令より少し適用が緩かったのかもしれませんが…。劉邦は民衆に受け入れられそうな話をして、人々に宣伝をしました。

4みんなの共通の敵がいたから
秦が天下統一をしたとき、正義の名目はありませんでした。秦が他国を侵略しただけでした。秦は「他国の王が暴虐だったから、滅ぼしたのだ」と宣伝しようとしましたが、秦の方がどう考えても他国よりも暴虐だったので、みんな納得しませんでした。
対して、劉邦には他国を侵略して大虐殺を行った秦という敵がいて、その後は虐殺をし義帝を殺害した項籍という敵がいました。漢は項籍という強敵を共同してやっつけた同志だったので、何となく自分達は善人だという気分のまま長持ちしたのだと思います。韓信や彭越などは殺害されてしまいましたけど…。秦も本当の悪人が敵になってくれればよかったのかもしれませんが、李牧も項燕も国を守ろうとした善人でしたので、かえって、秦は酷い国だということになりました。

5漢は時間をかけて、中央集権国家にしていったから
秦は、統一した時から中央集権を全国に適用しましたが、漢は百年ぐらいかけてじっくり中央集権にしました。百年の間に、権力の集中化を確実にして、ようやく中央集権にしました。秦は拙速だったようです。秦の拙速を見ていた漢は、ゆっくりすることにしました。(というか、劉邦が封じた諸侯が反乱したので、皇帝の親族を各国に諸侯として配置しましたが、さらにそれを中央集権にするには諸侯が中央政府に反乱してくれないと、諸侯をつぶせなかったのでゆっくりになってしまったというか(呉楚七国の乱のあと、中央集権になっていったのだと思います)。ですので劉邦は中央集権にしようと考えていなかったかもしれません。諸侯がいても、漢に従ってくれるなら良いや、みたいな。)

6漢は後継者を誤らなかった
始皇帝は死ぬとき、胡亥を連れていました。そして、二世皇帝にはまだ成人していない胡亥がなりました。他に成人している兄達がいたのに、末子が後継者でした。この末子は甘ったれで減らず口が達者な者で、しかも本当は父親から後継者に指名されていなかったようで、自分の地位を乗っ取られるのではないかと他の兄と姉も殺し、逆らいそうな臣下を殺しました。自分に自信がないから、粛清に走ることがあるようです。(以上は史記での話です。)しかし、後継者を誤らなかったら秦が生き残ったかどうか、分かりません。やはり秦は嫌われていたので滅んだかもしれません。
劉邦が死んだ時、恵帝もまだ成人していませんでしたが、母がしっかりした人で良い政治をしました。臣下たちも性格が良い恵帝を後継者に勧めましたので、恵帝に反逆する人はいませんでした。その後、恵帝の血筋が途切れ、ごたごたがあった後、文帝が即位しましたが、文帝もすごく良い人でした。漢は後継者選びが成功したと思います。文帝を選んだのは、臣下たちでした。

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質問した人からのコメント

2019/4/8 19:53:10

ためになります。
ありがとうございました。

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yam********さん

2019/4/402:43:39

景気の波だと思います。
①春秋~戦国初期(動乱で田畑が荒れ、人口が減る)=不景気
②戦国中期(七雄の富国強兵政策により、開発が進み収入も増え人口も増していく)=好景気
③戦国後期(人が減り、農地も荒れる)=不景気
④秦王朝期(厳しい法治主義で一層の困窮)=超不景気
⑤楚漢戦争期(落ち着いたり、動きが激しかったりといろいろ)=超不景気
⑥漢王朝初期(国土も人もボロボロなので厳しい政策を打ち出せないのでゆるく縛る→開発が進み、人口も増加)=好景気
⑦漢王朝中期(言わずもがな絶頂期)=超好景気
⑧漢王朝後期(農地の伸びしろが限界に達するが、人口が増えて困窮していく)=不景気
⑨王莽なんぞに国を取られる

めちゃくちゃ雑に言うとこんな感じかな、と思います

gra********さん

2019/4/322:28:21

個人的な意見ですが・・・あくまで・・・当時の人口と言うのは文献の記述のみで計算されています。
当時正確に戸数也人口也が記録されていた形跡は見た感じないので多数の記載漏れの野人集落があったと推測できます。
統一までは多分こうした連中は使役や兵役の対象外だったでしょう、しかし法律が厳格化し中央集権化するにつれてそうした連中が課税や使役の対象に入っていく・・・取り込まれるといった方がいいでしょうか?
儒家なんて連中は多分そのあたりまでは被差別集団に大別され義務も低かったものが急速に取り締まられるようになる中で秦朝批判が始まって一連の禁書騒動につながったんだと考えられます。
そう言う流れで社会システム化が進む中で戸籍に載らなかった「ヤクザ連中」の不満を扇動する連中が出てくるそれが劉邦だったり項羽だったりするんです。
多分始皇帝の跡継ぎが始皇帝くらい政治に長けてれば16年で滅びるなんてことにはなってなかったでしょうが如何せん急速に集権化しすぎて欲掻く愚か者が出てきた事で朝廷が滅亡したという流れになった・・・・。
後を引き継いだ漢はそもそも秦の制度に朝廷だけ乗っかっただけなのでそんなに苦労なく体制を作れたし秦は滅ぼした国の貴族や王族は滅ぼしてないんですが漢は反乱の目になりそうな輩は自分の忠臣ですら粛清した・・・・・。
この頃には戸籍に漏れる連中も非常に少なくなってたと考えられるので始皇帝が作ろうとした体制は漢で完成したから漢は長続きした・・・・という事ですね・・・。

bot********さん

2019/4/322:28:08

そもそも
広大な中国を1人の皇帝で統治しようというのがかなり無理があります
実際始皇帝は1日の仕事の量を竹簡30キロに制限しています
それでも始皇帝が有能だからなんとか回りました
無能が継げば悲惨なことになるのは明白でした
いみじくも韓非子が指摘していましたね、「紂桀のような暴君も舜堯のような名君も1000人に1人いるかどうか」「だからシステムはそうでない999人の凡人でも回るように設計しなければならない」と(韓非子「難勢」より
始皇帝はそのシステム構築に失敗したわけです

そうですね
郡国制があります
つまり封建制のようなものです(関中だけは別
これだと地方の仕事は地方で行えますので、1)スピードが期待できる 2)より地方の実情に合った政策が期待できる 3)中央vs地方といった無用な反感を産む余地が小さくなる 4)中央の負担が小さくなる
といったメリットが考えられます

bap********さん

2019/4/320:51:12

秦は中華史上初の、中華を統一した中央集権国家です。お手本がありませんので、行き過ぎや失敗のリカバリのノウハウなどもありません。
漢は秦を手本に出来る事、反面教師にすべきことを、秦が天下を統一していたわずかな期間のぶんだけでも参考にできました。これだけでも漢にとっては大きなアドバンテージです。
ヒントはあった。後はトライ・アンド・エラーです。
たとえば、蕭何→曹参の相国ひとり体制が行き詰まると、左右の丞相二人体制をつくったり、郡県制のデメリットはもちろん、郡国制のまずさも承知していたから、反乱を起こした7つの国を平定した後はほぼ郡県制に近いものにしたり。

以下蛇足です。
前漢は、王莽によって終止符をうたれました。王莽は復古主義をとって失敗しました。王莽の新が滅んだあと、王莽を反面教師に後漢は頑張りますが、名を一字、字を二字にする決まりや、宮中儀礼などは後漢でも生き続けましたし、曹丕は王莽の禅譲の方法を参考に、王朝交代の仕方のひな型を後世に残しました。

隋と唐の関係も、秦と前漢、新と後漢の関係に似ている部分があります。
プロトタイプ的で前衛的な国家経営を行って早くに滅ぶ王朝と、それを教師&反面教師にして長く続く王朝のセットの、一番早い段階のものが、秦と前漢だと言えるのではないでしょうか。

kan********さん

2019/4/319:50:59

厳罰主義ではなく寛治主義だったから、でしょうね。それに国土統治の基本システム(郡国制)を早期に組めたのも大きいかと。
あと、帝政秦は良くも悪くも始皇帝(嬴政)のワンマン国家の側面がありますが、漢は劉邦のワンマンではなく蕭何を始めとした数多の廷臣が政権運営を牽引した事も大きいように思います。そして、蕭何だけでなく曹参や陳兵、周勃など蕭何の後を引き継げる人材が多くいたことも。
この辺り、厳罰主義で些細なミスでもすぐ殺してしまう秦では有り得なかった事のように思いますね。

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