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本能寺の変、土岐明智家滅亡阻止説について リクエストです。 本能寺の変で...

kok********さん

2019/4/722:03:26

本能寺の変、土岐明智家滅亡阻止説について

リクエストです。

本能寺の変で明智光秀が織田信長を討った理由として、土岐明智家滅亡阻止説というものが数年前に出ていますよね。

これは「信長が自分の子や孫に天下や政権を継がせるために、徳川家康などの後々の障害になりそうな大名を潰そうとし、土岐明智家もいずれは、と光秀は考えた。そして謀反の決定打となったのは、信長が「唐入り」を実行しようとしていたことにあり、大陸へ渡れば日本軍は悉く滅ぼされると光秀は読み、一族の危機が迫っていたから」といったものであると私は理解しています。

信長の唐入りについては、日本国内をすべて手中に収めたら、さらに外へ進出していくことも自然な流れだと思いますし、火薬の原料となる硝石や西域からの珍しい交易品を難破の恐れがある船を使わずに入手できるのだから、「いずれはあの地域もほしい」くらいは思っていてもおかしくありません。

しかし、どうして明智光秀は唐入りが”確実に“失敗するとわかっていたのでしょう?

唐入りは後に豊臣秀吉が実行します。唐入りはたしかにハイリスクハイリターンの一大プロジェクトだったと考えますが、実行されているため絶対に失敗するとは思われていなかったのではないでしょうか。
豊臣政権は独裁色が強い政権ですが、諮問機関である五大老五奉行(私は国連でいえば常任理事国、株式会社でいえば大株主のような存在とイメージしてます)があり、彼らの賛同が得られなければ、決定が覆ることもあったそうです。ですので、絶対に失敗するとわかっているのなら、大老衆が賛成しなかったでしょう。せいぜい「終わりが見えないなどの懸念材料はいくつかあるけれど、やってみないことにはわからない」という認識だったと考えます。
そして気候の違いなど、日本では知らなかった(情報収集をしなかった)ことで苦しみ、唐入りは失敗します。

大陸に近い九州まで支配下に入れた豊臣政権ですらこうなのですから、美濃や越前、畿内にいた光秀がどうやって大陸の事情を知っていたのかが疑問です。謀反をおこすくらいなのですから、光秀は唐入りは失敗し、日本軍が大打撃を受けることを確実視していたはずです。最先端都市だった一乗谷で知っていたのでしょうか。

また滅亡阻止説では、信長にしろ秀吉にしろ、邪魔者を排除して政権を子や孫につつがなく受け継がせるため、親心としての唐入りだったとされます。しかし遠征先で大勢の家臣がやられてしまえば、その政策は失敗、失策だったことになり、政権の株はガタ落ちになり、支持率も急落、恨む者も出てくるでしょう。そんなボロボロになった政権を信長や秀吉は子や孫に渡そうとしたのでしょうか。


長文になってしまいました。
質問の答えというより、gpxさんのご意見を聞きたいと思っています。
gpxさんも土岐明智家滅亡阻止説に懐疑的な質問を過去にされていたので、私も疑問に思っているところを質問としてあげてみました。私もこの説には懐疑的です。また学術的にはあまり意味のある質問でないことは承知しています。

ちなみに「後に政権を乗っ取る家康は、唐入りが失敗すると知っていたので、力を温存するため渡海しなかった」という人もいますが、大老衆は政権と一蓮托生だったと考えてよく、失敗すれば「徳川様とあろう者がついていながら、このザマはなんだ」と自分の株が落ちることになるので、協力はしていたでしょうね。

お手すきの時にご意見をもらえたらうれしいです。
gpxさん以外でもご意見があったらお願いします。

この質問は、gpx********さんに回答をリクエストしました。

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ベストアンサーに選ばれた回答

gpx********さん

リクエストマッチ

2019/4/817:34:25

そもそも、信長が本当に大陸への進出を企図していたのかどうかを考える必要があるのではないかと思います。

この説はフロイスの『日本史』を典拠としています。
私は以前から疑問に思っていたのですが、信長が「毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服」といった壮大なプランを持っていたのだとしたら、なぜ家臣の誰かしらに語らなかったのでしょうか。

別の言い方をすると、この壮大なプランはフロイスの記録にしか見ることが出来ず、“日本人の書いた”一次史料からは確認することが出来ません。
信長を顕彰する姿勢の太田牛一あたりが最も好みそうな逸話で、『信長公記』に記載されていてもおかしくはないと思うのですが、イエズス会関係者にしか語らなかったというのか?だとしたら、それはなぜなのか…?

当時のイエズス会日本準管区は、信者数の伸び悩みなど、活動の停滞が問題となっていました。
イエズス会を含むスペイン勢力のアジアでの一番の目的は明国の征服でしたが、「自分たちが懇意にしている日本の君主が明国征服に前向きだ」という報告をすれば、明国征服に日本の軍隊を手駒として使うというイエズス会の計画とも合致するので、活動がそれなりに成果を上げているという内容になります。

従って、日本人の書いた一次史料で確認することが出来ない現時点では、この信長が語ったというプランはフロイスのでっち上げではないかと私は考えています。

もとが虚構なので、光秀の「阻止説」なるものが成立するかどうかは、言うまでもないと思います。

ちなみに、毛利平定を命じられた秀吉が「中国征伐の後は九州を退治し、その後朝鮮を平定し、明を征伐します」と信長に語ったというのは江戸時代初期に成立した『朝鮮征伐記』に記載されている話で、こちらも真偽のほどは言うまでもないと思います。

質問した人からのコメント

2019/4/14 19:48:29

回答ありがとうございます。唐入りが伝えられている史料は、フロイスによるものしかないのですね。私は当時信長が、まだ九州も関東も支配下に入れていないのに大陸進出なんて、気の早い話だなと思っていたのですが、まだ国内の目の前の問題に集中していたと考える方が自然ですね。

ベストアンサー以外の回答

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one********さん

2019/4/1010:12:26

私はgpx********さんの回答に賛成します。

明智光秀は本当に土岐明智氏だったのでしょうか!?

まず、光秀が土岐氏であったか否かについては、

光秀と親交があった公家の立入宗継が書いた『立入左京亮入道隆佐記』に、天正7年(1579)6月の丹波平定後の記事として「美濃国住人ときの随分衆也、名誉の大将也、弓取は煎じて飲むべき事候」があります。

ここに「ときの随分衆」とあるから、土岐氏の重臣。

吉田兼見の『兼見卿記』の元亀三年(1572)12月11日条に光秀の美濃の親類から祈祷を頼まれたことが書いてあります。

親類が言うには「山王社のある土地に城を築いて以来、不快に悩まされている」とありました。

そこから、美濃の土岐氏の一族である妻木氏に行き着き、光秀の正室につながるとしています。

そして、使用している紋が「土岐桔梗紋」だから光秀が土岐氏なんだとされています。

次は、明智氏の家系です。

信頼出来る明智氏の家系図、尊卑文脈「清和源氏系図」、寛永諸家系図伝「土岐系図」、寛政重修諸家譜「土岐系図」、系図纂要「土岐上野沼田系図」には光秀は出て来ません。

では、光秀が出現する系図としては、続群書類従「土岐系図 浅羽本」、続群書類従「明智系図」、系図纂要「明智系図」、土佐諸家系図「明智系図」、熊本安国寺蔵「山岸系図」、明智氏一族宮城家相伝「宮城系図」があります。

上記、「土岐氏」及び「明智氏の家系」については、必死で自分のルーツ探しをされている自称光秀の子孫・明智憲三郎著『光秀からの遺言』に書かれていることです。

憲三郎氏は自身の家系図を焼失したからとしてルーツ探しをされています。

そして、他の史料から読み解いたとしてご自身で推定された家系図を作られ、父を光兼、祖父を光重とされました。

どうも、私が観る限り信頼出来る家系図と光秀が出現する家系図を都合よくつなぎ合わせていると思われて仕方ありません。

また、ある研究者によれば憲三郎氏が使用されている信頼出来る家系図と光秀が出現する家系図を基にされて父は不明、祖父を頼典とされています。

さらに、改姓・改名があったのではともされています。

なお、ある研究者というのは某大学で博士号を取得されています。

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pea********さん

2019/4/901:49:11

明智光秀が、大陸への「信長の野望」を阻止するため本能寺の変を起こした・・・というのは違和感があります。

だからといって、他の重臣に何の相談もなく黙って決起すれば勝家・秀吉・家康らから袋だだきにされます。

彼らをすべて敵に回すガッツがあるのに、「明智光秀は小早川や加藤清正以下の武勇」で明を恐れたみたいにいわれるのは光秀を武士として貶めた見方かもしれません。

でも、そういった「臆病さ」が光秀の長所だったのかもしれませんね。

bir********さん

2019/4/818:09:48

本能寺の変の原因は色々いわれていますが
結局、光秀が死にたかったから謀反した、
とすら判断できます。光秀は主だった
家臣ら集め謀反決意を明かしたときに
各々らの過半数の同意なくば自分ひとりで
織田信長の御前に参じて切腹すると
言ったとされます。そのときは家臣ら
過半が同意したから謀反が成立したものの
、同意えられ無くば光秀ひとりで自害
してたし史実では謀反決行して織田信長や
織田信忠を討てたものの、その13日後に
山崎合戦の敗北で逃走中に光秀は切腹
していたから、どっちに転んでも切腹
なんで本能寺の変は自殺行為といえます。

fbb********さん

編集あり2019/4/817:55:50

最新の研究では信長の実像は足利
将軍の下に春秋時代のような中国の
ような覇者の連合の国を考えてた
らしい。研究の一つにすぎない。
毛利に完全に勝てる自信がないぐらい
慎重に定石を踏んで戦う人らしい。
実像に近いと思う。力が大きくなり、
身内優先で臣下がみなグルになったと
私は考えてる。証拠はない。ただこの方が自然だ。織田家も一枚岩ではない。信忠の他はこの
企みに加担する動機がある。信雄が安土を焼い
たのも妙だ。わからない。以上。失礼。

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