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「小早川秀秋」が最初から戦いに参加したというのは本当ですか?

ryu********さん

2019/4/1400:21:12

「小早川秀秋」が最初から戦いに参加したというのは本当ですか?

今まで小早川秀秋を関ケ原のチキン野郎と思っていました。

ただ最近、本を読んだら「一次史料」から考察すると
小早川秀秋の優柔不断さや
徳川家康の「間鉄砲」とかはウソと書いていました。

実際は東軍の中で最初に「松尾山」に陣取り、それに先に関ケ原に居た「大谷隊」が危ないと「石田、小西、宇喜多、島津」なども誘い出され
釣られたところに東軍本軍もやって来て、小早川、東軍本軍にフルボッコにされ
最初に居た、大谷吉継は逃げ遅れ、瞬殺され、
当時の表現だと合戦自体も「瞬く間」に終わったそうです。

これって本当でしょうか?

本当ならチキン秀秋が、けっこうやるな~と見直します。

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ベストアンサーに選ばれた回答

loo********さん

2019/4/1700:57:35

Q「小早川秀秋」が最初から戦いに参加したというのは本当ですか?」

複数の一次史料の検証、結果では「小早川秀秋」は開戦か序盤に合戦を行っていたと見れるそうです。

所謂「間鉄砲」などは講談に近しい「関ケ原大成記」などの史料にあることでコレを事実と見るのは危ういと思います。

吉川広家の書状、石川康通・彦坂元正書状、イエズス会日本報告集などの史料がこのことを肯定する史料とされます。

Q「実際は東軍の中で最初に「松尾山」に陣取り、それに先に関ケ原に居た「大谷隊」が危ないと「石田、小西、宇喜多、島津」なども誘い出され
釣られたところに東軍本軍もやって来て、小早川、東軍本軍にフルボッコにされ
最初に居た、大谷吉継は逃げ遅れ、瞬殺され、
当時の表現だと合戦自体も「瞬く間」に終わったそうです。これって本当でしょうか?」

当時の合戦場に実際に居た「吉川広家」の書簡ではほぼそういった内容です。また瞬く間に西軍が敗戦した点は吉川広家以外にも書かれているため当時の感覚としては短くは思えたようです。

質問した人からのコメント

2019/4/20 01:56:54

回答ありがとうございます!

そうなんですね。勉強になりました。

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ary********さん

2019/4/1900:50:14

小早川秀秋はチキンどころかすさまじい猛将です。秀吉生前における朝鮮出征時において自軍を鼓舞するために、自ら先頭に立って8度敵陣につっこんだといいます。はっきり言って最初から西軍につく気がありませんでしたが、偶然立ち寄った大阪がすでに西軍の占拠されていたため、やもなくその下についたといいます。

地理的な条件により、東軍・西軍についた人間は少なくないでしょうね。そもそも秀秋が果たして西軍についたとしてメリットがあるかどうか。秀頼成人まで関白につけるという条件が提示されていたそうですが、秀吉生前中に関白になるはずだった豊臣秀次が結局自害に追い込まれ、その妻たち20数名が処刑された挙句にまともな葬儀も許されずすべての遺骸が一つの穴に放り込まれるという出来事がありました。もし自分が第二の秀次になるとも限りません。一大名として安定した政権を担える人物につくというのはそんなに突飛な選択でもないでしょう。

豊臣家の親族としてより、自らの家を守ろうとした一大名として考えるならばそんなに変な事もしていないです。また最初から機を見て東軍に合流するつもりだったとしたら、関ケ原の西軍の拠点の一つを素早く落としたのも理にかなっています。また大谷吉継は既に病でほとんど身動きが取れず、目もぼんやりとしか見えていませんでした。その状態で戦場で自軍を鼓舞した事は評価されるべきでしょうね。例え瞬く間に敗北したとしても恥ではありません。

gri********さん

2019/4/1401:04:27

小早川秀秋が最初から西軍か東軍に味方をするか決めていたかは不明です。
優柔不断だったかは不明です。鉄砲の話も後世の作り話かもしれません、鉄砲の飛距離を考えれば不都合があります。
秀秋の評価は後世に作られた可能性が高く、関ヶ原の後 宇喜多領 岡山55万石を与えられ、それなりの功績を残しています。
秀秋の評価は今も続いています。
皆さんが思っている秀秋像は後世に作られた、後世の物語を面白くする為に作られた可能性が高くあります。
何かしらの資料が出るまで秀秋の評価は私には出来ません。

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fzn********さん

2019/4/1400:58:10

小早川1万2千の軍勢が
松尾山から降りるには
1〜2時間がかかるそうなので
「問鉄砲」から慌てて下山しても戦いに間に合いません。
また、当時の火縄銃では
山上に届かないので
銃声を聞いても「問鉄砲」か
どうか判断できません。
そもそも、小早川は松尾山から
西軍を追い出して
布陣しているので、
既に東軍なのです。
おそらく、山上に居たのは
物見だけで本隊は
麓に展開していたと
思われます。

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