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石田三成の言う通りにすれば勝てたのではないでしょうか?

kok********さん

2019/4/1423:30:38

石田三成の言う通りにすれば勝てたのではないでしょうか?

関ヶ原の戦いでは当初、石田三成が尾張と三河の間を決戦場と考えていました。もし福島正則が正しく豊臣家のために西軍に付いていれば西軍が勝利していたのでは無いでしょうか?

また正則が東軍に着いてしまい岐阜を攻撃しますが、この際も石田三成は岐阜を警戒し少ない兵ですが2千で援軍に駆けつけています。しかし、他の諸将はこの三成の警戒心を「心配しすぎ」とあざ笑うかのように兵を終結させず、結局、岐阜は陥落してしまいました。

その後も、三成が関ケ原を決戦場と考え毛利家本隊の出陣を要請しますが、これが聞き入れらず本戦ではその兵力差で負けてしまいました。

島津家も石田三成の指示を聞かなかったために、味方内で孤立し大変な撤退戦をすることになってしまっています。

すべて三成が予見し、事前に味方に通告していたことです。

三国志の蜀の名軍師・諸葛亮孔明にも当てはまることと思いますが、
石田三成の指示を聞いていれば関ケ原の戦いには勝てていたと見るべきでしょう。

石田三成のような仕事ができ自分たちより若く優秀な人物から指示を受けることは、諸大名のプライドが許さなかったのかもしれません。

皆さんのお考えをお聞かせください。

補足諸葛亮孔明の主君が愚帝、劉禅だったように三成の主君は秀頼と淀殿でした。そもそも三成の出陣要請に秀頼かもしくは豊臣家の旗や馬印でも貸していれば戦局は大きく違っていたでしょう。豊臣家が滅びた後に秀頼、淀殿があの世で三成に出会ったさいになんと詫びたか気になります。

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peace2qazさん

2019/4/1708:10:35

豊臣公儀に、諸大名は人質を出して忠誠を誓っていました。

しかし、山内一豊が家康に掛川城の無償提供を志願し功名を上げるという事態になります。

福島正則らも一豊の功名に続くべく、続々と城を家康に提供します。

「功名」と言うと聞こえはいいですが、会社で例えるとお偉いさんにゴマを擦って出世の糸口をつかもうとしているだけのように見えます。

組織とはそんなもんよ、といわれればそれまでかもしれませんが、豊臣家を家康から守るため東海道に配置された恩顧衆が、城を家康に無償提供。

あの世で太閤殿下に何と詫びたか気になります。

劉禅は魏に降伏後、魏に移送されます。しばらくたった後、蜀について聞かれると「ここの暮らしは楽しいので蜀を思い出すことはありませぬ」と答え魏の将軍を呆れさせたと伝わっています。

福島・山内も劉禅同様、豊臣の恩を思い出すことはありませんでした。

人の気持ちは移ろいやすいものです。

そんな中、最後まで恩を忘れず、主君から与えられたものを主君のために使った三成に秀頼や淀は頭が上がらなかったに違いありません。

https://www.nec-nexs.com/bizsupli/leader/matsudaira/09.html

質問した人からのコメント

2019/4/20 15:08:22

回答ありがとうございます。三成の唯一の誤算はそういった正則、一豊、清正などの醜い野心を見抜けない頭の片隅にすらなかったことだと思います。あまりに清廉すぎ濁った水が解らなかったと見るべきでしょう。諸葛亮孔明、石田三成はあの世で主君の傍に居られる者たちだと思います。

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ert********さん

2019/4/1608:52:27

歴史にもしはありませんが「もし」があったらその後の展開を想像するのが好きです。

ご質問の通り、関ヶ原では西軍は負けるはずのない戦だったと思います。
だからこそ三成にも司令官達にも油断があったのだと思います。

特に福島正則にような豊臣家の中心的な家来を味方にできなかったことは後々続く誤算の最大のものだったと思います。
福島正則が西軍に参加していれば、家康も講和を考えたと思います。

でも徳川が天下を奪うという歴史は変わらなかったと思います。

mas********さん

2019/4/1513:53:54

関ヶ原の段階では三成はどうやっても勝てなかったと思います。
唯一勝利する方法は千成瓢箪の馬印を三成の陣に靡かせて西軍は石田又は毛利軍ではなく豊臣軍だと知らしめることでしたが、これは淀の方の反対で実現しませんでした。

三成や行長、吉継といった面々は豊臣家から主導権を奪おうとしている家康の野心を見抜いていましたが、肝心の淀の方や武闘派の面々は家康にそんなことは出来ないまたはしないと思っていたところが有ります。

唯一の手段を封じられた三成に勝ち目は有りませんでした。
純粋に西軍=豊臣軍と信じて戦ったのは宇喜多・石田・大谷・小西位です。
ここに立花宗茂が居れば勝負はわからなかったかもしれません。

せめて家康が上杉軍に攻め込んだのちに兵をあげるべきだったと思います。

bil********さん

2019/4/1512:44:41

どんな状況になっても最終的には石田三成が勝利することは

なかったです。

それを見抜いていた名将大谷吉継は再三三成を説得させようとしますが

聞き入れられず仕方なく友人三成のために参戦します。

その時大谷吉継はもう帰ることは出来ない、死を確実に覚悟して出陣したそうです。

何度も三成にどんな策どんなに有利な条件があってもお前では

人望がなさ過ぎて人を信頼しないされない

勝ち戦も負け戦にすると言い放ったそうです。

現地総大将石田三成VS徳川では歴史通り勝てない。

毛利か秀頼なら勝てたかも知れません。

どんな状況になっても最終的には石田三成が勝利することは

なかったです。...

川崎さん

2019/4/1507:26:32

福島正則が東軍ではなく、西軍についていれば、西軍が勝てたかもしれませんね。
そもそも、家康と共に行軍し清洲城主である福島が西軍なら、東海道筋の大名たちも去就が不透明となり、主戦場が変わっていたでしょう。

ですので、福島正則が西軍に付いていたなら、西軍が勝っていた可能性があります。

そんな福島正則を確実に東軍に取り込んでいた徳川家康と、西軍諸将が言うことを聞かない事を予見できずに空しく指示を出し続けた石田三成との差ですね。

本当に三成が優秀なら、諸将が自分の言うことを聞かない事も予見し、自分が指示を出す以外の手段で結果を出していたことでしょう。

西軍の勝利を磐石とするためにも、諸将が反発しないように石田三成は最も得意である後方での補給担当に専念させるべきですね。
そして全体の戦略や、前線での戦術に一切口を挟まないようにするべきでしょう。
もし、どうしても言いたいことがあるなら、信頼のある別の武将の口から進言してもらうのがいいかと思います。

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