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北条義時以降は得宗と執権は同一人物という認識であってますか?

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ID非公開さん

2019/4/2221:58:57

北条義時以降は得宗と執権は同一人物という認識であってますか?

執権だけど得宗ではないとか、執権ではないけど得宗とかそういうのありますか?
そもそもいつから得宗という言葉が使われ始めたのですか?

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ban********さん

編集あり2019/4/2304:52:55

あってません。
あってないことは、日本史年表の最後に必ずついている北条氏の家系図でも見れば明らかでしょう。本家筋ではない人物が、何人も執権になっています。
つまり「得宗でないけど執権」という例は沢山あるってことです。
得宗であっても若いときは執権を分家にやらせて、十分に年をとってから執権になり、年をとるとまた執権を分家に譲る、というのが普通になりましたから、「得宗が執権でない」という状態も普通にあった、といえます。

「得宗」というのは、もともとは北条義時の別名(法名)であり、義時の嫡系子孫の家を「得宗家」と呼びます。これが北条家の本家であり、「得宗家」の当主がすなわち北条氏全体の惣領です。この地位(についている人物)を「得宗」と通称したわけです。
つまり「得宗」というのは、鎌倉幕府の職制ではない、北条氏という一族の家長、という内内の地位であり、本来は我々にはカンケイナイ話なわけですが、この言葉が教科書に載るほど大切なのは、北条氏の惣領イコール「執権」、というわけではない、という、少々込み入った仕組みが、鎌倉時代の半ばから出来上がったからです。

鎌倉における「将軍」と「執権」の関係は、京都での「天皇」と「関白」の関係に似ています。
天皇の地位は、血統最優先です。象徴であり、実権はありませんから、子供でも病人でも、ときには女性でも構いません。
しかし、関白は「天皇の親代わり」であり、天皇に代わって政治を仕切れなければ話になりません。だから関白が「健康な成年男子」でなければならないのは、常識です。
なので、関白は、親から子へと世襲できません。関白の子が幼かったり器量がなかったりすれば、兄弟や叔父、従兄弟に地位を譲ることになるし、そうなれば戻ってくることは期待できません(藤原道長と甥の伊周のケースをご参考に。ここには書ききれませんが)。
藤原宗家が鎌倉時代に「五摂家」に分かれ、もちまわりで関白をするようになるのも、「関白はガキではダメだ」というのが不文律だからです。

では、鎌倉幕府はどういう仕組みか。将軍というのはいわば「鎌倉の天皇」みたいなもの、京都から呼んできた象徴君主ですから、血統が高貴なら子供でも構いません(むしろ余計なことを考えないだけ子供のほうがいい)。しかし「執権」というのはそれを補佐して実際の政治を取り仕切るのですから、能力のある健康な成年男子でなければ意味がない、これは当然です。
鎌倉の御家人たちのあいだの競争に北条義時が勝って、以後、執権の地位を北条氏が独占しますが、執権の職を義時の直系子孫で代々世襲するというのは不可能です。兄弟、叔父甥、分家のあいだで執権は持ち回りされるようになるのは、むしろ普通の状態です。

ところで、京都の貴族と鎌倉の武士では「相続」ということに関する概念が違います。京都の貴族は「官僚社会」ですから、兄弟はそれぞれ別の家を構え、能力に応じてそれぞれ出世していけばいい、と考えます。しかし鎌倉の武士は農場経営者、土地持ちであり、遺産の分割相続は一族の弱体化を招きます。ですから、「惣領」をちゃんと決めておき、弟、分家はあくまで家臣である、という仕組みを守らねばなりません。
義時の直系子孫「得宗」は、北条家の惣領という「身分」です。いっぽう、執権とは「職務」の名前です。
執権・時頼(鉢の木のエピソードで有名なひと)が大病を患ったさい、嫡子の時宗がまだ若かったので、執権の地位には傍系の北条氏が就任します。時頼はやがて回復しますが、執権職に戻ることはせず、いわば「院政」「大御所」のような形で幕府政治を操りました。この時頼の地位が「得宗」と呼ばれるようになります。
これ以降、得宗が執権を勤められないときは一族の誰かが代わりに執権となり、得宗が成長すれば当然のように職務を返す、さらに執権を分家に譲ったあとも「得宗」として権力を握り続ける、というシステムができていきます。

ちなみに「得宗専制」というのは、単に得宗が権力を握ってる、という意味ではありませんので、注意してください。
時頼の子が時宗(元寇のときの執権)で、その子が貞時。貞時が若くして執権になると、幕府の御家人たち(幕府の直臣)と、北条氏の私的な家来たち(御内人といい、そのトップが内管領ですが、幕府としては陪臣にすぎません)のあいだで権力争いが起こり、その結果御内人勢力が勝利します。

「執権」というのは字面から見ると権力を独占してるように見えますが、実際は「御家人会議の議長」のような立場であり、他の御家人たちの意見を聞きながら政治をしなければならない、幕府というのはそういうふうにできています。
しかし「得宗」は北条氏の総領に過ぎませんから、他の御家人に相談する必要はありません。北条氏の家来(御内人)だけで政策立案して、それを執権を通じてトップダウンすれば、北条氏以外の御家人を無視して幕府を支配できる。これを「得宗専制」というんです。
執権と得宗は同じ貞時なのに、なんのこっちゃ、と、ここで大抵ワケが分からなくなるのですが、落ち着いて理解してください。正味の話としては、得宗本人というよりは、「得宗の家来たちが、御家人を押しのけて権力を握った」のが得宗専制、ということです。
なので、「執権」と「得宗」はどっちが偉い、という質問があれば、同じ人物である場合もあるが、違う場合は「得宗が偉い」ということになります。

ちなみに、「時頼は何代目の得宗か」といった問いでときどき悶着あります。初代の得宗は北条時政である、と書かれているモノがけっこうあるからです。しかし、時政は義時の父ですから、理屈として彼を「得宗」というのはヘンです。
得宗というのがひとつの「地位」である、と認識されるのが時頼以降なのですから、誰が初代得宗かどうかとか論議すること自体が本来はナンセンスです。
得宗というのは正式な職制ではなく、北条氏の惣領の単なる通称なので、厳密に考えてもあまり意味ありません。

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質問した人からのコメント

2019/4/23 10:36:22

皆さんありがとうございました。

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wkp********さん

2019/4/2300:42:54

得宗とは、北条氏の惣領家のことです。

時頼にとき、執権を長時に譲りますが、
尚も実権は、得宗の時頼が握り続けました。

2019/4/2222:27:04

鎌倉時代は「血統主義」だつたんですよ。

メイ吉さん

2019/4/2222:17:50

得宗と歴代執権は違います。
義時、と指すよりも時頼以降の血統が得宗家ですね。
時宗の代には「得宗家」であったと思います。
内管領(長崎氏)が幕府の実質上の最高権力者になっていくのが、得宗です。
三代泰時のときに連署を置いて、権力の独裁を避けたと学校では習うものですが、実際は泰時の子・経時がなぞの死を遂げて弟の時頼が執権に就いて以降は北条得宗専制は始まっているのです。
その得宗の意向で実務に当たる執事(内管領)が、北条連枝の諸家に執権職などを与えながら実際の執行権を掌握していたのが、鎌倉後期の実情です。

https://www.e-keizu.com/kakeizu/shikken.html

ここに家系図と執権の歴代が載ってますので、どうぞ。

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