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慶長4年9月の家康による大坂城入城について 前田利長による家康暗殺計画から家...

img********さん

2019/4/3018:00:03

慶長4年9月の家康による大坂城入城について

前田利長による家康暗殺計画から家康が大坂城へ入城したと言われています

谷徹也氏論文には宣教師史料から「家康による大坂城占拠は一種のクーデターとして認識されていた」と書かれていますが、ヴァリニャーノ史料をみると、家康が大坂城を占拠したと書かれている後に七将襲撃事件と思しき記述が続きます

ですから、引用された箇所は慶長4年9月ではなく、閏3月の事です

ヴァリニャーノ自身の勘違いかとも思いましたが、8月には小西の領内に転居していますので、ヴァリニャーノの勘違いではないようです

しかし、慶長4年閏3月に家康が大坂へ兵を入れた事は他史料には書かれていません

それどころか、寺社公家日記には七将襲撃事件でさえも確認できないので、ヴァリニャーノの史料から家康が一種のクーデターを起こしたとの認識は出来ません

又、慶長4年10月1日の内藤周竹書状から「家康のクーデター」と認識できるとの書き込みがありますが、当時大坂で奉行衆と会っていた「鹿苑日録」には大坂で騒動(家康の軍勢と豊臣家や奉行衆と)は書かれていません

家康の軍勢が伏見から大坂へ移動した事を見た「北野社家日記」にも、大坂での雑説の為に伏見から人数を下らせた。としています

その後も北野社家は、増田と会っていますが機嫌が良かった事も記しています

上記を考え合わせると、家康の大坂入城は「クーデター」などではなく家康家臣が書状に書いたように「秀頼の周辺で悪事があった」事の対処の為であった

豊臣家や奉行衆と軋轢や衝突などはなかった

と言えるのではないかと考えます

皆さまはどう思われますか?

史料や論文を典拠にして頂けると助かります

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ベストアンサーに選ばれた回答

loo********さん

2019/5/621:33:20

Q「皆さまはどう思われますか?」

毛利家文書に「大老は有事の際に大阪に入る取り決めがあった」とされ事象は違いますが、石田三成が細川忠興を謀叛人とした有事(西軍挙兵時)の際に毛利輝元は大阪入りしたとしています。

家康が大阪入りしたとすれば、この有事のため取り決め通りに状況鎮静のため入ったと思っています。

  • 質問者

    img********さん

    2019/5/714:35:00

    御投稿ありがとうございます

    「大老は有事の際に大坂に入る取り決めがあった」とされる史料が毛利家文書にあるのですね

    拝見した事がない史料なので、探してみます





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質問した人からのコメント

2019/5/7 14:40:03

ありがとうございました

史料や論文を典拠と書き込みましたので、回答が付きにくいかとも思っていました

史料も書き込んで頂きありがとうございます

この時期の家康の大坂入城は、クーデターと捉えている者は「まったくない」とは言えませんが、大勢の人々がクーデターと捉えていたとは言えないようですね

家康も「クーデター」を起こしたわけではなさそうですね

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