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植民地時代を日本はどう乗り越えましたか? 織田信長はキリスト教を許可したん...

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ID非公開さん

2019/5/305:41:24

植民地時代を日本はどう乗り越えましたか?

織田信長はキリスト教を許可したんですよね? 当日は植民地支配されることへの情報も危機感も、まだなかったのでしょうか?

いつごろから情報が入り、どのような備えをして行ったですか?

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dol********さん

2019/5/312:11:54

植民地時代を日本はどう乗り越えましたか?



●キリスト教を禁止する事によって乗り越えました。



1587年(天正15年)7月24日、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについて詰問、即日奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を発布した。

。 キリシタン大名は日本人を奴隷としてうりさばき、女50人と火薬一樽の交換が相場だったそうです。

●歴史的事実としてキリスト教により、伝統文化や宗教を破壊された国は悉くキリスト教国に侵略を受けて植民地にされています。

1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えています。

●日本は軍事力はそれなりにありましたが、統一国家にはなりきっておらず、

キリスト教を放置すればキリシタン大名とキリスト教国が結びつきながら、文化宗教的に内乱状態に落ち入り、今日のような日本という国家は存在できなかった可能性が高いと思われます。

事実、島原の乱ではポルトガルの支援を期待してあた。

ローマ教皇・ウルバノ8世が島原のキリシタンへ送った手紙には「我らはこれより、殉教をも覚悟して母国を捨て去る覚悟を持つ宣教師の大群を、あなた方の所へ送ることにする」という内容が記されていました。

ポルトガルやイスパニアなどカトリック教国は、世界各地で植民地政策を進めていました。
両国から資金援助を受けていた宣教師たちは、その戦略の遂行に大きく関与していて、キリシタン大名の領国などで改宗活動の扇動を行なっていました。

ーー
織田信長はキリスト教を許可したんですよね? 当日は植民地支配されることへの情報も危機感も、まだなかったのでしょうか?

ーー
●^_^織田信長の時代にはまだキリスト教の暴力性は知られていなかったと思います。

^_^●日本に来た宣教師は日本の権力者に珍しい文物を献上して擦り寄り、権力者を布教のための後ろ盾にすることに成功しました。 織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。

信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。

(のちに秀吉は、キリシタンによる神社仏閣の焼き討ち、日本人を奴隷とした問題に激怒してキリスト教を禁止した) ザビエルがゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた手紙には次の様なことが書いてあります。

「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。

●もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。」書簡集第93)

●キリスト教徒が急激に増えた背景には、キリシタン大名による領民のキリスト教への強制的改宗と、仏教や神道への弾圧があったと思われます。

●キリスト教による神道や仏教への弾圧
●キリスト教の聖職者の話を聞くと、たちどころに神社仏閣を襲撃したくなるとルイス・フロイスも明言しています。

「我々の話を聞いた住民はすぐにお寺に行って、自分たちの判断でお寺に火をつけた」(『フロイス日本史』 イエズス会 ルイス・フロイス)

「キリストの教えは、一つの神様しか信仰してはいけません。秀吉様、あなたはキリスト教を日本に入れる事を許したのですよね?我々キリスト教にとっては、絶対神以外の神様は邪魔になるので、我々を許したということは、焼いても破壊してもいいと許可したと同じ事なのですよ。」(『日本西教誌』イエズス会 ジアン・クラッセ)

●宣教師の扇動による神社仏閣焼き討ち僧侶の殺害


宣教師はキリシタン大名:大村純忠へ神社仏閣の焼打ちなどを何回も要請し、当初拒否していた大村純忠も後で許可しました。
そして1574(天正2)年、キリシタンが大村領内の寺や神社の略奪、破壊、焼打ちの限りをつくしました。

フロイスは宗麟にも仏像・寺社の破壊を奨励している。
その後宗麟は1561年(永禄4年)に宇佐八幡宮を焼失させ、領内の寺社を破壊した。その後、豊前彦山の三千坊といわれる坊舎を焼いた。

右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、

古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。

●領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述があるようだ。

●秀吉が右近に棄教を迫る場面の叙述がある。フロイスは秀吉の言葉をこう記している。


同じく予は、右近が先には高槻の者を、そして今は明石の者をキリシタンとなし、寺社仏閣を破壊せしめたことを承知している。


それらの所業はすべて大いなる悪事である。
よって、今後とも、汝の武将としての身分に留まりたければ、ただちにキリシタンたることを断念せよ。」(中公文庫『完訳フロイス 日本史4』p.221)

ー キリスト教が長崎およびその付近に伝道せられ、住民はこれに帰すべく強いられ、神社仏閣はことごとく破却せられ、長崎はいわゆる伴天連の知行所となり、政教の実権がことごとく耶蘇会(イエズス会)の手に帰した。


●天草の乱

ーー 天草は、キリシタン弾圧の島といわれますが、キリシタンが天草に伝来した時、 天草にあった日本古来の神社や寺院をキリシタンが弾圧して、そこにキリスト教会を建てた歴史があります。 キリシタン大名だった小西行長が天草にやってきて、 その寺院を打ち壊し、本尊の観音菩薩像を川に投げ捨てました。 村人たちは領主がキリシタンに改宗したために半強制的にキリシタンに改宗させられたのですが、自分達のご先祖が代々拝んできた観音様が川に投げ捨てらたことに心を痛めて、密かにその観音菩薩像を川から救い上げたのでした。

キリスト教徒による宗教的迫害 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キリスト教徒による宗教的迫害

ーー イエズス会宣教師は,まず大名を入信させ,次いで家臣領民を改宗させる方法をとった。一方,大名も貿易上の利益,欧風思想への好奇心などから相次いで入信してキリスト教を保護した。

最初に入信受洗したのは肥前長崎の大村純忠で永禄6 (1563) 年バルトロメイの名を受け,次いで大友宗麟 (フランシスコ) ,有馬晴信 (プロタシオ) ,黒田孝高 (シメオン) ,小西行長 (アウグスチノ) といった九州の大名が多く入信した。近畿でも高山右近 (ジュスト) ,蒲生氏郷 (レオン) をはじめ,細川忠興夫人 (→細川ガラシャ ) から一部の公家にまで及んだ。シュタイシェン神父 (1857~1929) の『切支丹大名記』では 46家 61人をキリシタン大名として扱っている。 ー

●キリシタン大名による領民はの強制改宗

キリシタン大名・有馬晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊 し、仏教徒の目の前で放火したりした。またキリシタンと僧侶 の間に争いが起きると、晴信は僧侶を処刑すると脅し、財産を 没収した。領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超 える人々が改宗したという。


キリスト教国による侵略への対策


キリスト教の布教が、侵略の一手段です。
これは他のラテンアメリカやアジア諸国の例を見る限り
明白であり、日本国の支配者である以上は、これに対して
断固たる対策をとらなければならない。これは、当たり前です。


現実にキリスト教人口比90%以上の国を見ると、


コンゴ民主共和国 人口の95.7%がキリスト教徒

メキシコ 人口の95%がキリスト教徒

フィリピン人口の93.1%がキリスト教徒

ブラジル 人口の90.2%がキリスト教徒


メキシコに「征服の踊り」というものがあります。

以下引用です

征服の踊り
--- アイデンティティーの喪失 ---
佐倉 哲

http://www.j-world.com/usr/sakura/essay/indio_dance.html


メキシコのインディオの人々に「征服の踊り」という民族ダンスがある。それは、スペイン人がマヤ文明やアステカ文明を壊滅し、先住民を奴隷化し、メキシコにおける征服者となったこと忘れないためインディオが踊るダンスである。踊り手はスペイン人に似せた仮面をかぶり、左手に十字架、右手に剣をもって、聞く者の心をえぐるような、もの悲しいリズムにあわせて、十字架と剣を、「これを取るかそれともこれか」、というようなしぐさで交互に突き出しながら踊り歩く。これを見物するインディオの人々の顔が悲しい。私はこれを見て、いつも涙を禁じ得ない。
ーー



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kaw********さん

2019/5/308:26:52

布教を放置しただけ。

生きていたら将来的には弾圧だろう。

boa********さん

2019/5/307:09:38

ルネサンスに始まる近世初期のスペイン・ポルトガルの世界二分割計画なんて、
産業革命に始まる近代帝国主義に基づく植民地争奪に比べたら
まだかわいいものです。
アステカやインカに軍事力がなかっただけの話です。
戦国日本の軍事力なめんな。
あと、年1回の来日しかできないポルトガル船団を過大評価しない。
結局はスペインもポルトガルもオスマントルコをぶち抜けていないし、
帝国主義が食い物にする清朝もムガル朝もまだ建国すらしていません。
マカオがポルトガルに押さえられたくらいでぎゃあぎゃあ騒ぐなら
江戸幕府が出島にオランダを呼んだ段階で七転八倒しなきゃ割に合いません。
あと、植民地支配を過剰に苛烈なものと感じている向きがありますが
イギリスはまんまとアメリカに独立を許してしまうという失態をやらかしました。
19世紀の植民地支配をデフォルトに設定するから、無駄にびびるのです。

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na_********さん

2019/5/307:08:31

>植民地時代を日本はどう乗り越えましたか?
欧米が日本にやってきた幕末には、既に植民地時代がほぼ終わりかけていた時代でしたので、各国とも積極的に植民地にしようとしませんでした。
むしろ、既存の支配勢力に影響力を行使して、間接支配が主流となりつつあった時代でした。

>織田信長はキリスト教を許可したんですよね?
しましたよ。
既存の仏教勢力を押さえ込むために。

>当日は植民地支配されることへの情報も危機感も、まだなかったのでしょうか?
有りませんでした。
当時のヨーロッパ諸国には、遠方に兵力を送るだけの国力がありませんでした。
当時ヨーロッパから日本には、2年かかりました。
スペインの場合、フィリピンへはガレオン船2隻がメキシコと行来していただけでした。
ガレオン船には1隻当たり500人ほど乗れますが、そうしますと物資が全く運べません。
そのため1回に運べる兵力は、100人程度しかありません。
毎年100人増強していたら、2万の兵力を集めるのに200年かかってしまいます。

ポルトガルなど、本国の人口が100万程度でしたので、戦時動員しても1万程度の兵しか用意できません。
インカを滅ぼしたピサロが180人の兵だった事を思い出してみてください。
アスティカを滅ぼしたコルテスは、キューバという根拠地がありながら、500の兵しか率いていません。

>いつごろから情報が入り、どのような備えをして行ったですか?
幕末ごろから、オランダより世界情報が入ってきて、少しずつ兵器の近代化、砲台の設置などが行われ始めました。

gxn********さん

2019/5/306:10:49

戦国時代の日本の鉄砲所有数は世界一でした。
しかも、長引く戦乱で兵士の練度も高いです。
正直、はるばるやってくるメリットは無かったでしょう。

あと、秀吉と家康は速い段階でキリスト教の胡散臭さに気付いて禁止しました。
これは、漂着した黒人奴隷からの情報じゃなかったかな?

mac********さん

2019/5/305:45:15

軍事力に自信がありましたから、植民地になるなんて考えてませんでした。

そして内乱に外国の助けを求めなかったんですね。

助けを求めて外国人兵隊が日本に入るとあっという間に植民地になってました。

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