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本作長義以下略と写しの山姥切国広はどれくらいの期間いっしょに小田原にあったの...

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ID非公開さん

2019/5/2222:09:35

本作長義以下略と写しの山姥切国広はどれくらいの期間いっしょに小田原にあったのですか?

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ハスミさん

2019/5/2310:30:27

長尾顕長が長義の刀を下賜されたのが天正14年。
国広に「長義の刀の写しを作って」と依頼したのが天正18年(1590年)2月のことです。
それで打たれたのが山姥切国広。その出来がよかったので、同年の5月に「長義の刀にも銘を入れて」と依頼しています。

豊臣氏による小田原征伐がはじまったのが天正18年2月から。
ですので、山姥切国広はその頃に打たれた、ということになります。
小田原落城が同年の7月頃。その後、長尾顕長は領地を没収され、山姥切国広は別の北条家の遺臣であった人物のものとなった…と記録されています。
一方長義の来歴は、既に江戸時代となった延宝9年(1681年)6月に尾張徳川家の徳川光友が買い求めた…というところまで空白です。

顕長が没落の際に長義も手放したか、長義だけは持って行ったかその辺りは定かでないですが、どちらにせよ、長義と山姥切国広が同時に顕長の手元にあったとすれば、それは国広が写しを打った天正18年2月から、小田原城が落城する7月くらいまでの半年足らずくらいのことではないか、と思います。
戦後処理のあれこれに少し時間がかかってもう少し長い期間だったとしても、1年は過ぎないんじゃないでしょうか。

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質問した人からのコメント

2019/5/29 04:39:30

ありがとうございます

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