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茨城県牛久市ですが、中世戦国時代は、岡見氏が支配していたようですが、小田原征...

ita********さん

2019/6/405:37:11

茨城県牛久市ですが、中世戦国時代は、岡見氏が支配していたようですが、小田原征伐後、岡見氏滅亡、その後、由良氏(横瀬)が入ります。さらに幕政期は牛久藩が置かれ、山口家が明治維新まで支配したようです。

そこで質問ですが、牛久城は、いつごろまで使用されたのでしょうか?

かなり広大な城だったようで、広範囲にわたって土塁や空堀の遺構が見られますが、大手門跡の地形など見ると、戦国期中世城郭とは思えないフシもありますし、岡見氏にあんな強大な城を築ける力があったとは思えず、北条氏の影響があったと考えるべきですか?

由良氏は、牛久の地に入りますが、石高は岡見氏よりさらに少なかったと思えるので、牛久城は破棄して、陣屋を築いて移ったのでしょうか?


以上2点、回答をお願いします。

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ID非公開さん

2019/6/413:40:17

牛久城は、城主の岡見氏によって天文後半(1550年頃)に築造された。
この城は、戦国期に築かれた東国の城の特徴を持ち、本丸がある城山には石垣や天守を持たない典型的な遺構を残している。ここは、後北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られている。

天正年間、多賀谷氏と岡見氏の係争の舞台となり、多賀谷氏を支持する佐竹氏と、岡見氏を支持する北条氏の間での対立の地ともなり、堅城として知られた。 天正14年(1586年)から翌年にかけて、下妻の多賀谷氏によって、岡見氏の有力支城である谷田部城と足高城は落城させられたが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高城氏などの援軍を得て守りきった。その後防衛のため城主岡見治広は北条軍の駐留を許す事になる。しかしながら、牛久城は天正18年(1590年)に豊臣秀吉軍の東国攻めにより開城に至った。

豊臣秀吉は由良国繁を牛久城主としたが、関ヶ原の戦い後に由良氏は減封となり、元和9年(1623年)に牛久城は廃城になった。

その後、江戸時代に入り寛永5年(1628年)に山口重政が1万5千石で牛久に封じられ、牛久藩が成立する。そして、2代藩主山口弘隆によって寛文9年(1669年)に旧牛久城外郭内の西端、牛久沼に接する標高約20mの台地の端に新たに牛久陣屋が築かれ、以降幕末に至る。

現在は、外郭部は開発の手が入り保存状態はよくないが、一部に空堀および土塁が残る。また大手門跡は市の史跡に指定されている。

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