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本能寺の変の直前(天正10年5月27日~29日)の明智光秀の動きを記録した史料って...

shu********さん

2019/6/1317:52:46

本能寺の変の直前(天正10年5月27日~29日)の明智光秀の動きを記録した史料って信長公記の他にありますか? なるべく信用できる史料がいいです。詳しい方よろしくお願いいたします。

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ベストアンサーに選ばれた回答

one********さん

2019/6/1410:31:10

本能寺の変の直前(天正10年5月27日~29日)を調べてみました。

吉田神社の神主の日記『兼見卿記』、勧修寺氏の日記『日々記』『晴豊公記』、大和の興福寺の僧侶が書した日誌『多聞院日記』には書かれていません。

そして、近衛前久の日記はそもそも存在しません。



その為、光秀が最期に催した愛宕百韻の日時が24日or28日と分かれてしまいます。

『信長公記(信長記)』によると28日、保存されている愛宕百韻の写本では一部24日になります。

私が観た京都大学附属図書館所蔵平松本でも24日になっています。

さらに、光秀の発句の内容も現在では「ときは今 あめが下しる 五月哉」ではなく「ときは今 あめが下なる 五月哉」だったのではと言われています。

太田牛一自筆の『信長記』池田本では「下しる」の「しる」の部分が擦り消されて「なる」に書き直されていました(金子拓氏)。

上記京都大学附属図書館所蔵平松本でも「なる」になっています。

その為、歌の解釈として「時はまさに (信長の)天下となりつつある 五月だなぁ」というようになり、あくまで中国攻めの成功を願っての発句だとなります(芝裕之氏)。



愛宕神社に奉納されていた愛宕百韻の原本が焼失又は羽柴秀吉に奪われたために実際の内容が分からず、残っている写本(14本)や他史料(『信長公記』等)からしかそれを知るしかありません。

  • 質問者

    shu********さん

    2019/6/1416:34:02

    ありがとうございます。
    わざわざ調べていただいたのは大変恐縮です。
    やはり変直前の光秀の動きは信長公記以外にはあまり無いようですね。
    「しる」が「なる」に書き直されていたというのは初めて聞きました。
    京都大学の平松本の存在を知れたのはとても助かりました。
    「なる」に書き直された痕跡があるという池田家文庫本ってどこにあるんでしょうか?岡山大学ですか?

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質問した人からのコメント

2019/6/18 01:20:31

ありがとうございました。大変助かりました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

bir********さん

2019/6/1318:07:00

京都の吉田神社の神主の日記か、
公家の勧修寺氏か近衛前久の日記、
ないしは、大和の興福寺の僧侶が
書した日誌あたり、が本能寺の変
のことを書いた史料でしょう。
それと細川家が謀反した明智と
連絡した文書を現存保管している。

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