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1786 最上徳内 太平洋岸 千島列島 とはどういうことですか?

yyb********さん

2019/6/1914:35:10

1786 最上徳内 太平洋岸 千島列島
とはどういうことですか?

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tan********さん

2019/6/2219:51:20

山形楯岡の貧しい農家に生まれた【最上徳内】は
実家農業と、タバコの行商に従事していた。
独学の算術が得意であったという。

父親の死をきっかけに、27歳で江戸へ出て、
医官山田図南の召使となる。
29歳の時、数学者本多利明の塾で天文・地理・経済学を学ぶ。

31歳の時に、田沼意次による北方探検に測量の助手として参加。

天明5年(1785)、第一回目の蝦夷調査では、
釧路、厚岸、根室の地理や、
この地に住んでいたアイヌの文化を調べた後、
千島・樺太・国後島へ渡った。

この働きが認められた天明6年【1786】、
今度は単身で択捉・国後に渡ることを命じられた。

徳内は松前を出発し厚岸に向かった。
ここは【太平洋岸】で最も開けたコタンである。
厚岸の総乙名(酋長)イコトイの協力を得て、
国後島、択捉島、【千島列島】の得撫島(ウルップ島)を探検。

アイヌたちが通訳を務め、択捉島では、
交易のために滞在していたロシア人イジュヨらとも交流した。

8か月にわたり、国後・択捉・得撫島を調査探検し丹念に測量して
『蝦夷精図』を作り、正確な緯度を記した。

徳内はその後も探検を続け(その間いろいろ事件あり)、
計9回も蝦夷地に渡航した。

こうした働きにより、徳内は幕府から
北方探索の功労者として賞され、地位も普請役へ出世し、
幕府における蝦夷地探検の第一人者になったのである。

82歳で江戸で没した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上

【最上徳内】【1786】【太平洋岸】【千島列島】

ということです

山形楯岡の貧しい農家に生まれた【最上徳内】は
実家農業と、タバコの行商に従事していた。...

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