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新興宗教の行者さんと聞くと我々は身構えてしまいますが、伝統的な宗教の出家者な...

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ID非公開さん

2019/7/723:10:24

新興宗教の行者さんと聞くと我々は身構えてしまいますが、伝統的な宗教の出家者ならヤバい人感はないですよね。同じ宗教なのに、何ででしょう?

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tom********さん

2019/7/1120:57:45

新興宗教は無茶な事をして短期間で成長したものが殆どです。
対する伝統宗教は長い時間洗練されて今に伝わっています。
仮に伝統宗教が無茶な事を続けていたら、今の時代に伝わる前に淘汰されて無くなっています。

伝統は、長い時間人々に揉まれて洗練され、安定した教義を持っています。
それが安心感を与えている節があると思いますね。

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dol********さん

編集あり2019/7/813:48:56

いいえ、伝統的なキリスト教と聞くと身構える知識人は多くいますよ!

知識人からの批判はあります。

レヴィ=ストロース
未開世界に営まれる生活の多様性と豊かさを発見し、そこにおける、感性と理性が統合された状態での自然とのコミュニケーションの可能性を発見することは、自然界の中での人間の位置付け、人類の種としての倫理を問い直すことにつながる。

それは、「神は自分の姿に似せて人間を作り、他の動物を人間に役立てるように作った」というキリスト教的人間中心思想に真っ向から異議を唱えることでもある。

「悲しき熱帯」の「日本の読者へのメッセージ」の中でレヴィ=ストロースは言う―

ーーーーー

アインシュタインは組織された宗教に反対を表明しています。

アインシュタインは人間の社会に介入する聖書の人格神を一切否定しています。

しかし、自然の法則に自己を顕現するスピノザの神なら信じると述べてます。

アインシュタインは語ります。「(宗教)という言葉を聞いたとたん、身震いがする。教会は、いつも権力者に自らを売り渡し、義務の免除と引き換えに、どんな取り決めにも応じてきたんだ」

人間の社会に介入する人格神を一切否定しています。

「神という言葉は、私にとっては人間の弱さの表現であり産物に過ぎず、聖書は、子どもっぽい、原始的な伝説に過ぎません。」


世界的な聖書学の権威
ノース・キャロライナ大学宗教学部長。バートDアーマ



今日多くのクリスチャンは、過去から現在に至るまで、自分の信仰する宗教が平和を慈しんで来たと考えている。しかし少しでも歴史を齧ったものなら誰しも、キリスト教徒が何世紀にも渡って、いかに暴力的て、抑圧、権利侵害、戦争、十字軍、大虐殺、宗教裁判、及びホロコースト(大虐殺)を助長してきたか知っているーーそしてその全てが信仰の名のもとに行われた。キリスト教の創造 p169

イエスの教えの上に築かれた宗教ほど、争いへの傾向が甚だしい宗教は、人類史上他に例を見ない。イエスは、ことば通り本当に剣をもたらしたのだ。p170


ーー新約聖書と旧約聖書 上村静 p10
本書ははっきりとキリスト教に批判的な立場をとる。なぜなら、聖書には暴力性がまとわりついていて、その暴力を行使しているのがキリスト教だからである。それは遠い過去の話ではなく、現在進行中のことである。


パウロの「福音」の根幹には、死ー罪に対する罰としての朽ち行く死ーへの恐れがある。なんとしても永遠に生きたいのだ。
パウロの望む「永遠の命」とは「自分の生命」が永遠であることである。それは、自我の認識する「生命」の永遠への欲求、すなわち「神のようになること」への欲求たであり、それが自我(エゴ)に発する欲求であるがゆえに、パウロの神はその欲求を満たしてくれる因果応報の神となる。p233

000ー
非キリスト信者はたんに非信者というだけで「非倫理的」(=偶像礼拝者)とみなされ、

キリスト教は、パウロよりも少し後の時代からその文字どおりの暴力を行使して今日にいたるが、キリスト教の歴史上の暴力は、特定の人々の恣意的なものではない。それはそもそも「永遠の生命」の獲得というキリスト教の救済論に内在する暴力性(エゴイズム)の顕在化なのである。
4ーー
キリスト教の露骨な暴力は、たまたまクリスチャンの中にも暴力的な人がいることに由来するものではなく、キリスト教の根幹たる救済論そのものに内在する暴力(エゴイズム)の顕在化である。
その暴力はイエスな弟子たちが作り上げたキリスト神話にすでに内包されていたものであるが、パウロはそれを倫理主義という形に確立したと言える。

新約聖書と旧約聖書 p235からp236

新約聖書と旧約聖書 上村静





今日多くのクリスチャンは、過去から現在に至るまで、自分の信仰する宗教が平和を慈しんで来たと考えている。しかし少しでも歴史を齧ったものなら誰しも、キリスト教徒が何世紀にも渡って、いかに暴力的て、抑圧、権利侵害、戦争、十字軍、大虐殺、宗教裁判、及びホロコースト(大虐殺)を助長してきたか知っているーーそしてその全てが信仰の名のもとに行われた。キリスト教の創造 p169

イエスの教えの上に築かれた宗教ほど、争いへの傾向が甚だしい宗教は、人類史上他に例を見ない。イエスは、ことば通り本当に剣をもたらしたのだ。p170


哲学者フリードリヒ・ニーチェは,宗教組織としてのキリスト教を「人類の永遠の汚点」と表現しました。

キリスト教は「大きな災い,巨大な深奥の堕落[であり],…悪らつ,陰険,暗々として卑劣な,いかなる手段にも訴える」と書いています。


ノーベル文学賞を受賞した、
哲学者のバートランド ラッセルも「信じない者は地獄」の思想が、およそ人間とは思えない残酷さで、魔女狩りや、アメリカで先住民を殺戮したキリスト教徒の行為と深い関わりがあると結論付けています。
ーー
ラッセル 「宗教は必要か」からの抜粋


キリスト教は、教会や信者自身が主張するような社会的、思想的、道徳的な役割も果たすものではなく、むしろ「恐怖」と「無知」によって人間を縛り付け、多くの人々の運命を残酷な方向へと向かわせたものであり、社会と人間の発展にとって害悪でしかないものであるという。

田川 建三(自称「神を信じないクリスチャン」)
《キリスト教の 「救い」 と言っても、 現代の信者たちは、 それぞれが勝手な思い入れをしているだけで、 古代のキリスト教徒が何から救われたのか、 という事実を、 ちっとも見ようとしていない。 彼らはずっと 「無神論者」 と呼ばれていた。 つまり彼らは、 宗教から救われた、 宗教から解放されたのである。 だから、 諸宗教にしがみつこうとしていた人々から、 無神論者と呼ばれ、 弾圧されたのである。》(ご本人のHPより)

イエスの教え

隣人愛をかったるイエスは二枚舌の男
イエスも弟子たちの勧誘に耳を貸さない街はソドムとゴモラひどい目にあうと凄んでいますから、・・・・

マタイ10:14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」



さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」・・・獣と偽預言者]は、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方[キリスト]の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

(「ヨハネの黙示録」6の9〜

そして、聖書には殺戮命令満載です。

モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、かれらにこう言った。「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムにそそのかされ、イスラエルの人々をヤーヴェに背かせて引き起こしたもので、そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。」
(民数記 31章14〜18節)
あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。
(申命記7章1〜2節)

jaj********さん

2019/7/808:00:20

日本に出家者(=家を出て林や洞窟に住む)や本来の仏道修行者(無所有(むしょう、(財を)所有しない)、托鉢=乞食をする、身を慎むなど)はまずいない→大体はパフォーマンスかと。
新宗教が身構えられる理由:過度な拝金主義(2000万?貢いだ話を聞いたことある)、新聞などを複数部買わせる、オウム真理教サリン事件のインパクト、歴史が短く単純に信用していない(日本人は何故か老舗を好む)、ご近所で悪い噂話を聞く、ネットで軽く調べるだけで不祥事や批判コメントが多く見れる などかと。
新宗教に限らず、自分が把握している仏教系だと僧を自称しているのに言行に仏教との乖離が大きくそれを恥じもしないのが実状(=そんな人間は信用に値しない)なので、寺離れを推奨する。日本の寺はヤバイというか、競争原理に晒されてこなかったので、平気で嘘吐く人多いし、信仰心とかまず無く、無警戒に信用すべきでない。

facebook(十川仁史)に宗教の話〜寺への苦情まで、身を持って受けた質問に答えた布教用ページを公開してます。興味あればどうぞ。そこそこ役に立つ筈。

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h0q********さん

2019/7/723:34:19

ナザレ村のイエスや
シャカ族のゴータマ・シッダールタの
言ったことが全て正しかったかどうかは疑問です。
イエスを「キリスト(救済主)」あるいは「神の子」としたり、
ブッダを「如来(完成した人)」としたのは、信者です。
しかし、人間は誰でも不完全なものであり、
イエスやブッダが例外だと信ずべき根拠はどこにもありません。
信者はいつでも教祖を甚だしく過大評価します。
それは新興宗教に限ったことではありません。
イエスの言葉だから、というだけで多くのキリスト教徒は
盲目的にそれを真理だと思い込んでいます。
ブッダの言葉だから、というだけで多くの仏教徒は
盲目的にそれを真理だと思い込んでいます。
もし、新興宗教の信者たちの教祖への過大な思いこみが
批判されるのなら、キリスト教徒のイエスへの過大な思いこみも、
仏教徒のブッダに対する過大な思いこみも、
同じように批判されるべきだと思います。
人間の様々な主張の中で、それが、ある特定の人間やその言葉を、
絶対化したり神聖化する時、その主張が人々を動かし、
社会を動かす大きな力を持つようになる時、
その主張を吟味することなく、無視することは、歴史を振り返ると、
決して賢哲な判断とは思えません。
ただ、それが、新興宗教バッシングにならないように気をつけなければ
単なる既成宗教団体の道具にすぎません。
世間に認められている人々(イエス、ブッダ、最澄、空海、法然、親鸞
日蓮、等々)の宗教さえも批判する勇気が必要だと思います。

tub********さん

2019/7/723:14:33

私なら逆ですけどね。袈裟を纏った坊主に出くわすと、身構えますね。
それで、何か宗教めいた話を振られたら、反論しますからね。

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