なぜ明治維新は神仏分離をしたのでしょうか? 何故だと思いますか?

なぜ明治維新は神仏分離をしたのでしょうか? 何故だと思いますか?

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江戸中期に出雲大社が神仏分離を行ったのが着火剤となったといわれます。 それは、出雲大社の近隣の寺の僧侶が、出雲大社境内に勝手に仏教施設を作ったり、また出雲大社神官に読経や剃髪を強要したことが原因でした。 つまり神道側の我慢が限界を超えてしまい、神仏を分離することになりました。 この動きは幕末~明治に全国に飛び火しました。

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天皇陛下を神様、にしただろ? これは、宗教である神道の一環なのだ。 ところが、明治憲法28条で、信教の自由、が規定されたから、おのずと政教分離も必要になったが、上記との関係が問題となった。 そこで、政府は、「神道は宗教では無い」という施策を採った。 ところが、神仏習合は、神道と仏教が融合するものだから、どうしても宗教的色彩が強くなる。 そこで、神道と仏教と明確に分けて、 内務省神社局が管理する神社・神道は、宗教ではなく、私的な仏教とは無関係、という立場を採った、のだね。

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明治政府が“神仏分離”をした理由ですね。 ・・・幕末の志士が影響された“国学”に基があると言います。 “国学”とは、日本古代を理想とし、“本来の日本”や固有の“日本精神”を日本古典の研究から理解していこうという学問です。 そして古代研究が深まると、独特の価値付けがされたその理解を、実現したい!となるのです。 古典研究部門の完成者は、『古事記伝』を著した本居宣長。 そしてその“弟子を自称”する平田篤胤が、宣長のナショナリズム的史観をベースに、独自の歴史観・発展説を展開。 そして彼は、それに基づいて、本来在るべき日本を支える“復古神道”を築くのです。 平田の歴史観を簡単に説明します。 古代の日本人は、良くも悪くも、純真な“大和ごころ”の世界に生きていた。 ところが、それを汚染する考え方<宣長の漢意(からごころ):外来の悪魔の思想>が流入。邪な人間が多数を占める、“悪い日本”になってしまった。 だから外来の思想を捨てて生きるべきだ。 やまとごころのエッセンスは、“神道”に存在する。 しかし神道すら漢意に汚染されている。 だからそこから外来要素、儒教、仏教etc.を取り除くべきだ。 そしてそれを実現したのが、自分の教える“復古神道”だと説き、彼は教祖様になるのです。 そして篤胤の下に集まったのが、神官や地方の豪農。 彼らの手によって、平田の復古思想や排外主義が地方に浸透します。 薩摩藩では、島津斉彬の頃、神仏分離=結果的に“廃仏毀釈”の第一段階が踏まれます。 時は幕末。 安政に入る頃から始まって<全ての寺院の梵鐘を取り上げる>います。 島津斉彬の側近で、市来四郎(砲術家)の話が、その根拠。 幕末には“攘夷思想”という排外思想が、流行しました。 それはアヘン戦争の顛末や列強のアコギさが伝わったのが直接の切っ掛け。 でも実は、復古神道や平田流国学の広がりが、それを受け入れる基盤となっていたのです。 薩英戦争や下関四国艦隊砲撃事件で、志士たちは賢明にも攘夷が不可能と悟ります。 しかし“ご一新”の理想を実現したい彼らの心の中に、ハードーウェアーとしての新政府樹立では、欧米に対峙するには足りない。 理想の国家には、ソフトウェアーとして、海外の新知識とそれを受け入れるためにも、本来の日本精神<やまとごころ>が必要と考えたのです。 ・・・つまり、“和魂洋才”! そのため、神道を広めるための“宣教使”が、五稜郭陥落の2ヶ月後に設置され、翌年正月には、明治天皇の名前で失敗しますが国教とするという“大教宣布の詔”が発せられるのです。 その3年前には既に“神仏分離令”が出されていましたので、詔の発布と共に、民衆が寺院の破却に向かう“廃仏毀釈”が発生するのです。 では民衆が動いた理由は? 平田流国学に感化されたり、故郷で実質的に廃仏毀釈をやってきたアジテーターがいた事でしょう。 でもそれ以上に、江戸時代の寺院や僧侶が“心のよりどころ”となっていず、旧権力の一員であった事が大きな要素だと言われています。 つまり多くの小作人が働く寺領を持ち、檀家制度にあぐらをかき、更には“寺請制度”の下で寺請証文<身元証明>を発行するのが、尊大な僧であり寺院だったのです。

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以下の理由が考えられると思います。 ①従来から、理念としての「神仏習合」を気に入らない教義と思っていた人達が、明治新政府の成立と共に権力を得たことにより、「神仏分離」が実行出来るようになったこと。 ②国民をコントロールする方法として、国家神道(皇室神道)により国民を精神的に支配する道具として利用しようとしたこと。 逆に、産土神や村の鎮守社などの庶民信仰(民俗神道)は遠ざけられて、小規模の小さな神社は廃されてしまいました。 ③廃藩置県等の政策により、それまで藩や幕府から知行(寺領)を得ていた寺院の処置に困っていた明治新政府は、①及び②の政策に「渡りに船」とばかりに飛びついて、寺領制度を一方的に廃止しました。そのために、経営を維持出来なくなった寺院は廃止せざるを得なくなったのです。

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武力革命政権ですから。 お寺さんと一緒では天皇が神になれないでしょう。 国民をだますにはそれが一番です伊藤博文など、 明治政府の都合です。 (江戸時代の過激派指名手配犯人) 14で天皇になっが本妻側室7名との間に30人の子供を作りました。 政治に無関心。、 これは、当時の世界の常識でした。 どうして選挙で選ばないのって? 今の常識は通用しません。 勝てば官軍です。 負ければ賊軍です。 将軍は生き残ったので、 負けたとは言えませんが。 トップを殺したら勝ち。 これは世界共通です。

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仏教の影響力を排除するためです。江戸時代は行政は仏教にある程度の自治や既得権を認め、仏教は行政の出先機関として協力する体制でした