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明智光秀の妻子が、本能寺の変のとき、坂本城で全員死んだというのは本当ですか?

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ID非公開さん

2019/7/1821:07:40

明智光秀の妻子が、本能寺の変のとき、坂本城で全員死んだというのは本当ですか?

有名な正室の煕子は本能寺の変の何年か前に病没しており、当時の妻は後妻だったようですが、系図を見ると、その後妻の息子は生き延びた様子です。
また、公家の勧修寺晴豊の日記に、本能寺の変の折、光秀の長女の明智秀満夫人とその継子を預かっているという記録もあります。
勧修寺晴豊が混乱の最中、日記にわざわざ嘘を書く意味も分かりませんし、この記録は信用しても良いのではないかと思います。
明智光秀の妻子が坂本城で全滅したというのは、何か根拠があるのでしょうか?実際には、逃げて生き延びた人も多かったのでは?

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one********さん

2019/7/1909:55:43

勧修寺晴豊の日記6月29日条に「明智秀満の女房衆が生け捕りにされたと聞き、引き取ることにしいてる」と書かれています。

その女房衆の中に光秀の娘がいたか否かは不明です。

記述には「北□(判読不能文字)の姉也」とあるのですが、光秀の子には「北」の付く人物が見当たりません。

男子の名前については、愛宕百韻に「光慶」があり、光秀の書状に「十五郎」、連歌会の記録に「自然丸」、天正10年6月17日付安養寺宛遠藤秀繕書状にも「自然」とあります。

フロイスの『日本史』に「明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ、長男は十三歳であった」と書かれています。

また、天正10年6月19日付高木貞久宛羽柴秀吉書状にも「坂本城では光秀の子二人と明智彌平次が切腹し天主が焼け落ちて死んだ」と書かれています。

さらに、天正9年11月の五吟一日千句会の記録には「光慶」「梅松丸」「亀菊」の名があります。

そして、『津田宗及茶湯日記』の天正9年4月12日条に「惟任日向守殿父子三人」とあります。


女子は津田信澄室、明智秀満室、細川忠興室の三人、男子は少なくとも「光慶」「梅松丸」「亀菊」の三人がいたことが分かります。

しかし、亡くなったのは「明智の二子」「子二人」ですから、計算上一人は生きています。

  • one********さん

    2019/7/2112:59:25

    「十五郎とは細川忠興の弟頓五郎」という説には反対ですね。

    実は『信長公記』にも兄弟が出てきます。

    巻十(天正五年)の「片岡城攻め干さるゝ事」という記事に、

    「十月一日、片岡の城へ取懸け攻められ候。

    永岡与一郎・同弟頓(とみ)五郎、あには十五、おとゝは十三、」

    とあります。

    そして、この手柄で兄弟は信長から感状をもらいます。

    天正五年(1577年)十月二日付長岡与一郎宛織田信長自筆書状(永青文庫所蔵)

    「働てからニ候、おりかみ披見候、いよいよ働候事候、無油断馳走候へく候、かしく」

    そして、これには天正五年(1577年)十月二日付堀久太郎秀政添状もついています。

    「十五郎」の名が出てくる書状は六月九日付明智光秀覚書(永青文庫所蔵『細川家文書』)です。

    この覚書には年が書かれていないのですが、書かれている内容から天正十年(1582年)と比定されています。

    そこに「其以後者十五郎、与一郎殿なと引渡申候て、」と書かれています。

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gpx********さん

2019/7/2000:27:03

谷口研語氏によると、

「秀満が坂本城にはいった時、すでに坂本城では逃亡する者多く、籠城戦は不可能と判断したもののようである。秀満は城にのこっていた光秀の妻子や自分たちの妻子を殺し、城に火を放ったのち自分たちも自刃して果てた。」

「光秀の嫡男は光慶だとされる。通称を十五郎とするのが、高柳『光秀』以来の通説だが、どうだろうか。十五郎とは細川忠興の弟頓五郎としたほうがいいのではないかと思う。愛宕百韻の伝本には光慶に『明智十兵衛』と註記されたものがある。

フロイスの報告では、坂本城落城のさい『明智の二子は同所で死んだというが、長子は十三歳で、ヨーロッパの王侯とも見ゆるごとき優雅な人であった』とする。『豊鏡』によれば、これは自然丸である。自然丸は天正二年(1574)閏十一月の連歌に参加している。同八年(1576※)正月には光慶が参加しており、自然丸は天正九年(1581)にも自然(『他会記』。刊本は『日然殿』とする)としてみえるから、光慶とは別人である。

光秀が細川氏の招きで丹後に遊んだ時、同行した光秀の二子とは光慶と自然丸なのだろう。また、本能寺の変のあと、オルガンティーノが坂本で通行証をもらったという『明智の子』も自然丸だろう。であるなら、坂本城と運命をともにしたのは自然丸とその弟であり、光秀には少なくとも男子が三人いたことになる。なお、光慶の最期は良質の史料では未詳である。」(※…原文ママ)

「『明智軍記』によれば、光秀には三男四女があり、いずれも妻木範熙の娘の所生で、彼女は天正七年(1579)当時四十五歳だったとする。西教寺の過去帳にみえる光秀室とは別人ということになり、上記子供たちの母親が誰であるかは確認の術がない。」

とのことで、史料を追う限りでは光秀の家族で落城時に死亡したのは妻(後妻か?)と男子が二人であり、嫡男の光慶に関しては確認が取れないようです。

いずれにしても、全滅というわけではないようです。

ーーー

>系図を見ると、その後妻の息子は生き延びた様子です。

仮に光秀の出自を土岐明智氏とした場合、その流れを確認できる「明智系図」は

①「明智系図」(『続群書類従第五輯下系図部』所収)
②「明智氏一族宮城家相伝図書」(『大日本史料第十一編之一』所収)
③「鈴木叢書本明智系図」(東京大学史料編纂所謄写本所収)
④「明智系図」(『系図纂要第十二冊・上』所収)
⑤「明智家系図」(『明智一族・三宅家の史料』所収)

などがありますが、先行研究の多くが解明しているように、人名などをはじめとして誤謬や異同があり(光秀の父の名ですら一定していない)、光秀に関する土岐明智氏の系図については、あまりあてにならないかもしれません。

won********さん

2019/7/1900:37:36

明智光秀の子孫は今も生きておられますが。

明智光秀の子孫は今も生きておられますが。

2019/7/1822:54:42

嘘です。

大半の子女は逃亡し一部は戦死、寺にいた息子が京都で殺されたとあるだけです。

正室はすでに故人で、若い側室か継室がいたようですが、これも嬰児の息子と逃げています。

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jun********さん

2019/7/1821:58:50

そもそも、光秀の家族構成自体が不明なので、
坂本城落城時の生存者の有無についても、定かではありません。
ただ、細川忠興に嫁いだ玉子(ガラシャ)や津田信澄に嫁いだ娘が、
存命であったのは、間違いありません。

史料から、実子として存在が確認できるのは、
上記の嫁いだ娘二人の他、光慶と名が伝わる男子一名と、
一族の左馬助秀満(光春)に嫁いで、坂本城で自害したと伝わる女子が、
一名いるだけです。
後は伝説に近いものが多く、例えば、坂本龍馬の実家の才谷家も、
光秀の末裔という伝承を持っており、この類の家は、
日本各地に点在するそうです。

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