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武田信玄亡き後、勝頼が信玄時代よりも領土を拡大できたのは何故ですか? 勝頼の...

kaw********さん

2019/7/2800:30:15

武田信玄亡き後、勝頼が信玄時代よりも領土を拡大できたのは何故ですか?
勝頼の采配が良かったからでしょうか?

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zwc********さん

2019/7/2801:13:06

勝頼が武田家の最大版図を実現した時期は2回にわたります。最初は天正2年から西方への攻勢です。この時は信長が足元の伊勢長島一揆や、本願寺との戦いに追われ、有効な後詰ができなかったことも大きな原因かと思います。三方が原のときと同じですね。ですから、勝頼も決して全面勝利とは認識していないでしょう。なぜなら、同盟相手である本願寺勢力の鎮圧を見過ごしてしまった点では武田家も痛み分けだからです。これが天正3年に、勝頼が三河に侵攻して織田領を圧迫しようとした遠因です。

2番目の時期は北条氏と本格的に開戦した天正7年9月以降です。この時は佐竹氏との同盟が有効に機能し、上州方面は武田方の優勢で推移しますから、最大版図が実現したと言ってもよいでしょう。もっとも、おかげで武田方は北条氏・徳川氏との二正面作戦を余儀なくされ、高天神落城に至ります。

こうして見ると、「采配」という要素もありますが、外交が大きいのでしょう。敵を少なくし、敵の敵と結ぶという方法です。信玄の晩年から勝頼期の武田家は、北条氏との同盟、あるいは上杉氏との和睦を維持して背後を確保しつつ、対織田家包囲網を有効に機能させて徳川家を孤立させ、領国を維持・拡大していったと言えます。信長は上方での包囲網の処理に追われながら武田家に対処するという多正面作戦を強いられ、戦力を傾注できなかったのです。ですが、この武田家の外交は上方の同盟国の救援を強いられますから、どこかで無理が来る可能性もあったのです。

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vox********さん

2019/7/3012:26:54

本来武田家は勝頼の子の信勝に継がせるつもりだが、信勝はまだ幼く、
勝頼が後見人として武田をまとめていたわけです。だから、父からの信頼が少ないということと、勝頼は信玄に倒された諏訪家の人間
であったため、家臣の性格などが分からないため、必死であったのでしょう。

みーさん

2019/7/2800:42:05

先代が偉大だったのでプレッシャーが重かったのでしょう。なめられないように頑張ったんだと思います。

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