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熊本県の南小国町と小国町は、大分県にめりこんだような場所にありますが、他の熊...

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ID非公開さん

2019/8/1214:31:08

熊本県の南小国町と小国町は、大分県にめりこんだような場所にありますが、他の熊本県の市町村とは水系も違い、峠を越えないと行けないのに、なぜ熊本県に属しているのでしょうか。

杖立川・大山川(筑後川本流)での舟運を通じて大分県の日田とは経済的に深く結びついていたようです。またかつての国鉄宮原線も大分県の恵良駅を起点として少しだけ県境を越えて肥後小国駅まで結んでいて、熊本県の路線とはつながっていませんでした。

南小国町と小国町は大分県に属していた方が適当に思うのですが、歴史的経緯などご存知のかた宜しくご教示ください。

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unt********さん

2019/8/1422:50:03

それはひとえに地形上の理由です。水系こそ違え、小国郷(現在の小国町・南小国町)は肥後(~熊本県)との行き来の方が、豊後(~大分県中南部)との行き来よりはるかに容易だったのです。


世界最大級の規模といわれる阿蘇カルデラは、九州山地の地形をきわめて特異なものにしています。
阿蘇カルデラの外郭を作る外輪山は、カルデラの内側はまさしく山体陥没の現場そのもので、切り立った急斜面が連続しています。ほとんど垂直に落ち込んだ絶壁地形のところもあります。

これに対し、阿蘇外輪山の外側は、裾野がゆるやかに広って、その上部は斜面ともいいがたいようななだらかな高原状の台地となっています。
外輪山を源流としその外側へ流れ下る河川は、源流部ではゆるやかな高原斜面を静かに流れ下っていきますが、やがて水量が増えると突如として山を削って深い谷を刻む激流となっていきます。さらに下って多くの支流を合わせるようになると、谷はますます深くなり、切り立った山と谷が連続する峻険な地形になります。

峻険な谷が、外輪山上部の高原地帯と、下界の平野部との間の重大な交通の障害になってきました。陸路は険阻な山道で難所の連続、舟運はあまりの急流ゆえ危険で安定航行が困難。高原と川下の平野部との間との、ヒトとモノの交流を阻む交通の隘路でした。

これに比べると外輪山外側の高原地帯と阿蘇カルデラの内側との行き来は、峠を越えるとはいえ遥かに容易でした。カルデラ内から外輪山の上までは、確かに陥没地形の急斜面を登らないといけませんが、カルデラの底部の標高はかなり高く(崩れた山塊が堆積しているのですから)、高低差は大したことはありません。
そして外輪山てっぺんの峠まで来れば、その外側はなだらかな高原状の斜面を下るだけです。
外輪山の外側の高原地帯からカルデラの内側へ向かう際は、峠までなだらかな道を登ればあとは急斜面を一気に下るだけですから難所らしい難所はありません。
このような地形上の特徴ゆえ、阿蘇外輪山の外側の高原部は、歴史的に同じ河川水系の中下流部よりも、外輪山内側のカルデラ地帯との間の方が人の行き来も活発で、牛馬を使った物資の輸送も容易でした。


このような理由から、阿蘇外輪山の外側の高原地帯は、水系は阿蘇カルデラ内(白川水系)とは異なるにもかかわらず、カルデラ内と同じ肥後国(現在の熊本県)に属してきました。
小国郷(小国町・南小国町)のほか、産山村、旧波野村(現阿蘇市の東部)、高森町の東半分、山都町の蘇陽地区などは、熊本県に属していますが外輪山の外側で、水系は大分県や宮崎県を流れる河川の最上流域にあたります。通常は分水界に県境が引かれることが多いのですが、阿蘇カルデラの外縁部に関してはその原則が当てはまりません。


全土が高原となだらかな山地に覆われた小国郷は、山や渓谷に囲まれ周囲と隔絶した山上の桃源郷のような場所ですが、他地域との行き来はどこも難儀を極めました。阿蘇カルデラ内の坊中(現在の豊肥本線阿蘇駅周辺)や内牧から、絶景で知られる大観峰の峠を越えて小国郷に達するのが、よその「人里」と小国郷とを結ぶもっとも楽で、かつもっとも近い道筋だったため、小国郷は肥後国=熊本県に属することになったのです。

小国郷と「下界」とを結ぶ唯一の水系は、小国郷一帯の水を集めて流れ、大分県日田で玖珠川と合流し筑後川となる杖立川~大山川(水系上は筑後川本流の上流部)ですが、この杖立川は滝と岩場が連続する大変な急流です。
鉄道やトラックが普及する以前の木材の主な搬送手段は、主に木材を筏(いかだ)に組んで、その上に人が乗って操舵しながら川を下る方法でしたが、激流の杖立川では筏を組むことさえできず、昭和期まで一本流し(管流し)といって丸太を一本ずつ20kmも下流まで流していました。
良質のスギの産地で、林業が唯一の基幹産業だった小国郷は、外界に木材をまとめて搬出するには大分県日田までこの一本流しで送る以外に方法がなく、したがって経済的には熊本県の町より日田との結びつきが強い状態がずっと続きました。
しかし杖立川が激流だったため人は河川舟運で日田との間を行き来することはできず、小国郷から日田へは五馬高原(現在の日田市天瀬町塚田)を大きく迂回する山道(日田往還)を通るしかありませんでした。

小国郷は大分県との経済的な結びつきが強かったことは確かですが、しかし地理的には大分県との交通には熊本県阿蘇地方との交通以上に大きな障害があって、ここが肥後=熊本県に属することになったのはこのような地形的要因を考えれば十分にうなづけるものがあります。

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    質問者

    ID非公開さん

    2019/8/1423:32:08

    納得です。素晴らしい回答をありがとうございました。

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ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

2019/8/1214:58:28

単純に「旧肥後国」だったからでは?
あと阿蘇市と南小国町・小国町の間はかなり急峻な地形で人の往来も少なかった。

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