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邪馬台国までの行程について質問があります。対馬、壱岐はいいとして、九州に上陸...

z_x********さん

2019/9/1308:33:26

邪馬台国までの行程について質問があります。対馬、壱岐はいいとして、九州に上陸してからは伊都国や奴国など近隣の陸上をうろつきます。

その後、不弥国から先は水行20日で投馬国、水行10日 陸行1月で邪馬台国です。

なんかおかしくないですか?

・不弥国までは丁寧に寄り道してるのに、その先は10日や20日とばし。
・不弥国からもう一度、船に乗り換えて長距離移動してる。
・陸行1月の中身の説明なし

このあたりをどう解釈したらいいと思いますか?

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oms********さん

2019/9/1310:12:25

単純な話です。北九州の重要拠点だった伊都国までは中国人が比較的頻繁に行き来しており、また、伊都国周辺の国の情報も当然それなりに入ってきますが、そこより離れると実際に行った人が殆ど居ないのであまり情報が無く、ざっくりとした記述しか出来なかったのです。

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sak********さん

2019/9/1513:45:19

魏志倭人伝は誰か一人が書いたものではなく、編者である陳寿が様々な文書を編集したものです。
それを前提にして読めば「大陸~伊都国」までと「奴国~邪馬台国」までは文章の書き方が違います。これは引用した文章が違うということです。
つまり大陸から伊都国までの行程に、起点はどこか分からないけれども邪馬台国への行き方が付け加えられているのです。

魏と国交があったのは伊都国で卑弥呼は伊都国の女王です。
伊都国と同時期に倭には邪馬台国という国があり、それはおそらく今の奈良県だと思いますが、その情報を繋げてしまったために訳の分からない文章になっているのです。

「奴国~邪馬台国」の文章を削除して読んでも全体にはまったく影響がありません。それどころか今まで解釈が難しかった部分もすべてクリアになります。

zab********さん

2019/9/1505:16:43

魏志倭人伝の記述は、日本列島の地理と適合しません。それは数多くのプロアマの研究者が研究して、いまだに決定を見ないことでも明らかです。

魏志倭人伝は、三国志という三国時代の正史の一節です。中国本土の魏、呉、蜀についてはかなり正確でも、その周辺国の記述となると信頼性は低下してもやむをえません。この部分は、三国志の主題と違う枝葉末節の部分ですから。

ただ確実なのは、魏志倭人伝で記された里程、「萬二千餘里」「東南陸行五百里」「東行至不彌國百里」を、魏の一里(約435m)で換算すれば、邪馬台国の位置は九州では収まらないということです。

fff********さん

2019/9/1420:25:56

倭人伝の行程を概観すれば、不弥国までは里数で不弥国から先の邪馬台国までは所要日数となっています。また、伊都国は郡使の往来常に駐(とどまる)所と書かれています。つまり、伊都国から先へは帯方郡の郡使は行ってはいないのです。ただ、伊都国の次の奴国を過ぎ、低い日向峠を越えて下ればそこは不弥国で、現在の宇美町になります。

帯方郡から派遣された張政も伊都国にある帯方郡の出先所から先へは行ってはいないと思います。役人の張政は身の危険を冒して戦争の最前線まで行く必要もないでしょう。帯方郡の出先所へ邪馬台連合国の各王を呼び寄せ、そこで卑弥呼に檄を飛ばし、狗奴国の攻勢を受けて劣勢な卑弥呼は自死をしたのでしょう。

しかし、不弥国は陸地の中。船出するわけにはいきません。立往生です。ところが倭人伝には不弥国から南へ水行二十日で投馬国、さらに南へ水行十日陸行一月で邪馬台国と書かれています。この記述が邪馬台国論争の始まりとなるわけで、その疑問についてはこれまでウン百年も論争が続いているのですから、ここで改めて取り上げることもないでしょう。

ただ、一つの手掛かりがある(と思います)。それは、倭人伝の最後に再び張政が登場していることです。再度邪馬台国の女王になった台与に見送られ、使者二十人と多くの貢ぎ物と共に魏に変わった晋国へ帰国しています。女王国については非常な注目があったようで、倭人伝は多くの字数で書かれていますし、晋の皇帝や帯方郡の役人たちの質問攻めにあったと思われます。

邪馬台国まで行っていない(と思う)張政に代わって答えたのが同行した使者ではないか、と私は思います。「邪馬台国から松浦半島の先にある呼子まで陸行一月。呼子から対馬海峡を渡って狗邪韓国まで水行十日。狗邪韓国から陸沿いに帯方郡まで水行二十日」。

もっとも、余計な表現は勝手なものですが、それよりも重大なところは邪馬台国と狗奴国が全面戦争となってから、張政は実に十九年間も列島に滞在していたことです。

私は、張政が倭国が定まる最も重要な黒幕の役割を果たしていたのではないかと思っているのです。その十九年間とは、邪馬台国と狗奴国が全面戦争となってから倭国が定まる年数に相当するからですが。

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ID非公開さん

2019/9/1418:05:46

不弥国が福岡県にあったと仮定して、不弥国から対馬海流と季節風に乗って、東へ水行20日進めば但馬(投馬国)に辿り着きます。沖乗り航法なので途中で出雲に寄り道しなかったという事。但馬から東へ水行7日進めば福井平野(邪馬台国)に辿り着きます。九頭竜川を渡って福井市中心部まで辿り着くには3日かかります。
帰りは対馬海流と季節風が逆流・逆風となるので、リアス式海岸線を避けて若狭湾沿岸と丹後半島を徒歩で1ヶ月、但馬から不弥国までは地乗り航法なので、帰りは出雲にも寄り道したかもしれません。
畿内説だと、若狭湾から徒歩で琵琶湖まで行って、琵琶湖を船で渡ったら、そこから徒歩で奈良まで。
九州説となると、距離的に投馬国は鹿児島、邪馬台国は奄美大島になってしまいます。
距離と方角的には徳島説が一番無難なように見えますが、瀬戸内海ルートはその時代はまだ未開拓だったので、その場合は福岡〜愛媛〜高知〜徳島となります。

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pin********さん

2019/9/1407:57:16

「帯方郡治(ソウル付近)」から「卑弥呼が都としている、倭国連合の邪馬台国」に来るのに「万二千余里」と言っていますので、、そこまで来るのに「全て水行であれば10日、全て陸行であれば1か月」必要であると、「日数換算」しています。
「不弥国」の前面、博多湾沿岸が「邪馬台国」で、ここから「船(水行)で10日」程のところに、「投馬国」という大きな国(五万余戸)がありますが、この国は、「総里程万二千余里」には含まれない別の国の事です。

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