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50年ほど前に下記のようなことを言った佐伯真光氏のことが話題になりました。

kar********さん

2020/1/2014:15:17

50年ほど前に下記のようなことを言った佐伯真光氏のことが話題になりました。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q142187636...

氏の持論は、現在の仏教学においては、どう扱われていますか。

かなり強引な推論に思われますが。


(引用開始)

いわゆる合理的宗教としての仏教と言う神話がつくりだされたのは、十九世紀のヨーロッパにおいてだった。ヨーロッパの学者が本格的に仏教に接触し、その研究をはじめたとき、彼等は、十九世紀合理主義の立場に立って、パーリ語文献のなかから好みに合う部分だけをひろい出し、まったく頭の中だけで純粋・明澄な原始仏教なるものを、虚構したのである。

(中略)


今からみると、オルデンベルク、ノイマン、ガイガー、ヴィンテルニッツ、初期のリス・ディヴィズ等によって描かれた原始仏教の世界は、彼等自身の先入観の無意識的な投影だったのである。彼等はパーリ仏典を彼等自身の思想的立場から勝手に<解釈>していたにすぎない。

(中略)


しかし、このような先入見にみちたヨーロッパ人の仏教観は半世紀も続かなかった。

パーリ文献から、サンスクリット、チベット語文献へ、さらにシナ、日本の仏教へと欧米人の視野が拡大し、欧米の学者が漢訳大蔵経を読みこなすようになると、事情は一変した。

(中略)


今世紀に入ってからは、仏教をインド思想の流れの一環として、あるがままの姿でとらえようとする立場がヨーロッパの学界では確立した。

パーリ文献を虚心に読むならば、そこには必ずしも倫理宗教としての仏教ばかりでなく、古代人ならば当然抱いたであろうような無知や俗信が混在していることがわかる。

そして古代人の一人だった歴史的仏陀が十九世紀合理主義者と同じように思索し行動したと考えることのほうが、むしろ不合理だということがわかるだろう。


こうした仏教観を一番はっきりと打ちだしたのは、仏教学のポーランド学派の祖ともいうべきスタニスラフ・シャイエルであろう。

彼は初期の著作『救済教としての大乗仏教』以来、『東方の諸宗教』におさめられた晩年の論文にいたるまで、一貫して、仏教は単なる倫理教であったことはなく、最初からそれ自身の神話と祭儀と救済の教義を持った宗教であったと主張してきた。

彼の所論は要するに、小乗仏教のあとに大乗仏教がくるのではなく、多くの神秘的教義を含んだ大乗仏教こそ、最初期の仏教に直接由来するものだという点にある。

彼は如来信仰が仏陀以前からインドに存在していたとする一方、いままで原始仏教の根本教義とされてきたような合理的教義、たとえば無常・無我・涅槃(ねはん)等は本来の仏教のものではなく、のちに仏教教団が現実の生活から遊離し、僧侶が僧院で孤独な冥想にふけるようになってから創作され、パーリ経典に付加されたのだと考える。

すなわち、彼によると仏教史の順序は、小乗から大乗へ、ではなく、大乗から小乗へ、となる。ポーランドの生んだもう一人の偶像破壊者コペルニクスと同じように、シャイエルは仏教史の図式を逆立ちさせたのである。


シャイエルの個々の議論にはいろいろの問題があるのはたしかだが、彼によって代表される一群の学者の出現によって、原始仏教神話が完全にうちくだかれ、第二次世界大戦後には合理的宗教としての原始仏教を説くような「神がかり的」な学者はヨーロッパでは一人もみられなくなったことはたしかである。

欧米仏教学の解説付綜合論文目録であるビブリオグラフィ・ブディクをみれば、そのことは極めて明瞭である。

「根本仏教神話を非神話化しよう ー明治仏教百年の錯誤ー 」佐伯真光(一部)。
1968、昭和43年。

(引用終わり)

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san********さん

2020/1/2211:58:27

引用分で問題になっているのは、合理主義と神秘主義の対立という図式ですよね。
つまり、仏教の中には理性、思索によって合理的に理解ができる部分と、そのような理解を超えた神秘主義的な教えが混在しているという認識が前提になっています。

そして佐伯氏は、仏教の合理主義的側面を強調するのは十九世紀のヨーロッパ仏教学に端を発する錯誤であり、本来の仏教は神秘主義的な性質が強いものであったという見解を持っているようです。
この見解を前提にして、上座部に象徴される「根本仏教」観を否定し、神秘主義的な性質が強いと言える密教こそが、仏教の本質を色濃く受け付いだものであるという論法で密教を顕揚したいというのが、佐伯氏の主張の核心らしいことはわかります。

ここで問題になるのは、佐伯氏が言う仏教の「神秘的教義」というのは具体的に何を指しているのかが明かでないということです。
sagさんはそれは「梵我一如」にあるという主張なのでしょうが、引用分を見る限り、佐伯氏はそうは書いていません。
それとも引用分以外のところで言及されているのでしょうか…それは私にはわかりませんが。


佐伯氏が言う仏教における「神秘主義的教義」というのが、例えば神々の存在と、そうした存在への供養といった行為を指しているのであれば、それはパーリでも大分を割いて説かれていることですので、上座部とて否定してはいません。
ただそれらは仏教からすれば智慧の開発によって可視化される現実の一部であって、神秘でもなんでもないわけです。
輪廻や業についても同様です。

しかし、アートマンとブラフマンの合一というものを仏教の「神秘的教義」だというのであれば、一体経典のどこにそのような記述があるのか明らかにしないと誰も納得はできません。
中村氏や佐伯氏の我田引水的な引用をいくらしようと、そもそも彼らは現代日本の仏教学者に過ぎないわけで、ブッダ自身ではないわけです。彼らが「ブッダはこう考えた」と述べても、根本的に間違っている可能性は否定できないわけです。
ですかから、ブッダの考えはこうだ、と主張するなら、ブッダの考えと見なせる文献から引用してこなければ意味がないのです。

  • 質問者

    kar********さん

    2020/1/2212:57:07

    回答ありがとうございます。

    全く同感です。

    歴史上の釈迦が、救い主たる仏として出現したことに仏教の意義がある、と思いたい気持ちはわかるのですが、それは、大乗経典を歴史的資料として文献学的に検討したことによるのか、どんな検討をしたのか、ということが不明瞭なのですよね。

    しかも、

    >シャイエルの個々の議論にはいろいろの問題があるのはたしかだが、

    ということなら、それを明らかにすべきですよね。

    どんな問題が指摘されているのかと。


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man********さん

2020/1/2410:01:55

電波が弱いのか?返信がうまくいかないので別IDで投稿します。

>私も、あなたに理解させることに限界を感じています。
客観的合理的に間違いを指摘すれば相手は論破され決着します。

>ですから、あなたのその見解に対して、そこに合理的な疑いを挟む余地が無い、と同調してくれる人がいますか、ということです。

私を論破するには「普遍論争」、「仏は法に優先する」を「法は仏に優先する」にしないと無理です。わたしの回答の間違い指摘してください、私は論破されます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q102189400...
子供でも分かるように書いたつもりなんだけれど、正しいから論破できないでしょ?

①あなたが私の見解「テーラワーダは外道である」に同調できない理由=合理的な疑いを挟む余地は何ですか?
「同調」について
>すなわち、彼によると仏教史の順序は、小乗から大乗へ、ではなく、大乗から小乗へ、となる。ポーランドの生んだもう一人の偶像破壊者コペルニクスと同じように、シャイエルは仏教史の図式を逆立ちさせたのである。

同調者がいてもいなくても、正しいことは正しいし、間違いは間違い。
同調してくれなくていいですから「テーラワーダは外道である」の間違いを指摘してください。

以前のやり取り
>けれど釈尊の場合には、自分が仲間を導くんだとか、あるいはみなが自分に頼っているんだと、そうやって思い上がるようなことがない、というんです。

「師弟関係がある」=「自分は指導者だ、人々は自分に頼っているんだ」と思うことがない者が
②>どうやって「自分は指導者だ、人々は自分に頼っているんだ」と思い上がれるんですか?

小学生の悪ガキが嫌々書かされた反省文のように「自分は思い上がっていません、お願いです、信じてください」と誰に向かって?何故?
80歳の釈尊が釈明・言い訳・弁解しなければならないのですか?
③相手は誰ですか?
④何故ですか?

>『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか思うことがない。
その言葉は、執着が無い、師弟関係は有るのだがそれに執着していない、ということの別表現である、と解釈することは、不合理でしょうか。

思い上がりや執着という語は出てきませんから、読み込むことは無理でしょう
⑤読み込む合理的根拠がありますか?「思い」を「思い上がり」に増幅する根拠なんてありません、
⑥仏伝の雑多な伝承の中で釈尊が思い上がった場面がありますか?

被救済者にとって救済者は救済(衆生済度の誓願の実行=菩薩行)に淡白であっては困ります、熱烈執着してほしいです。

>ゴータマ・ブッダも臨終には気に入らぬことがあると、気が高ぶって、いらいらしていたらしい。xxx釈尊でも凡人のようにいらだつことがあるかどうかということが学者のあいだで問題とされ、また経典はここでももっともらしい説明を加えているが、人間ゴータマのすがたを伝えているのだと解すれば、なんら問題はないはずである。かえって人間らしい姿である。中村元『ゴータマ・ブッダ』II、中村元選集[決定版]第18巻、p.445

⑦凡人のようにいらだつ釈尊が「人間らしい姿」とポジティブに評価できるなら。大いに「思い上がる」ほうが「人間らしい姿」で評価できるんじゃないですか?

⑧釈尊が凡人のような「人間らしい姿」であるべきだ、という理由は何ですか?

中村元『ゴータマ・ブッダ』II、中村元選集[決定版]第18巻、p.445について。
わたしはこの本を所蔵していましたが『新釈尊伝』(渡辺照宏)派なので段ボールに入ってました。あなたとの絡みでペラペラ見てて中村元の「釈尊凡夫説」!!=「釈尊は煩悩具足の凡夫である」!!に出会いびっくりしました。この一文で仏教学者:中村元はご臨終です。

>煩悩の滅尽は、生きてる限り無理なことで、煩悩を堰き止めているのだと。
「堰き止める」とは何ですか?減らすということですか?スマナサーラは煩悩はゼロにできると考えてるんですか?

>その点では、あなたも同じ考えではないでしょうか。
その点?
釈尊凡夫説(中村元)釈尊非凡夫説(スマナサーラ)。
存在論なら凡夫でなければ非凡夫、非凡夫でなければ凡夫。
二者択一。
仏教は縁起説、縁起説は存在論ではない、機能論。
縁起説なら第3の答えがある、釈尊は而凡夫。

わたしは外道(中村元、スマナサーラ)ではありません。
釈尊而凡夫説です。

佐伯真光氏から50年間、根本仏教神話の非神話化が実現しなかったのは中村元のせいでしょう。
仏教学者の仏教というのも「テーラワーダは外道である」に気づかない「文献学者として注意義務怠慢」(財前教授は臨床医として注意義務怠慢)だけど仏教学者は不十分でも一応文献を読むから神話に付き合ってはいられない。
巷の素人は自分が「知的」だと思いたい、上から目線で「合理性」「求道者」を根拠に他人「信仰者」「救済者」を啓蒙!!してるつもりで満足なんだから、素人にとって仏教は外道中村元で十分、おとぎ話でも神話でもいい。
寄らば大樹の陰、文化勲章受章者という権威に乗っかってればたいていの場合、上から目線でモノが言える。

あなたもお困りでしょう?
中村元の言うことが正しかったら『スッタ二パータ』は『凡夫のことば』です。

空白の50年は終わりにすべきです。中村元は葬るべきです。「テーラワーダは外道である」で仏教史の図式を逆立ちさせるべきです。

サヨナラ、中村元。

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sam********さん

2020/1/2210:38:41

>初期経典の釈迦は、過去にも仏がいたことに言及しています。
他帰依・仏帰依せよ、というその仏の【仏】教が伝わらなければいないのと同じ。

>そして、自分は、古い道を発見しただけである、ということも言っています。
釈尊以前から『ウパニシャッド』の哲人や独覚・苦行者等「法の発見者」はいくらでもいる。
悟った人は東洋・西洋、数千人いる、仏教や禅がなくても悟れる(鈴木大拙)のだから。

>つまりは、釈迦は、過去の仏と同じである、過去の仏も自力の道を説いていたのだ、ということでしょう。
違う、法の発見者は釈尊以前からいっぱいいる、外道でも発見し表現できる「法・真理」を相手にしていない。
仏を発見し表現したのは釈尊が初めて、過去の誰かが仏を発見し表現していればその時点で仏教が始まっている。「一塵中有塵数刹、一一刹有難思仏」(発見)「他帰依・仏帰依せよ」(経験せよ)

>その心情は理解できますよ。ただ、そんなあなたの方が正しいと他者に認めさせることには限界がある、ということにあなたは気づくべきでしょう。
「テーラワーダは外道である」を客観的に立証したつもりでいます。私は情緒的な人間だから論理には疎く、欠陥があるかもしれない、ですが。あなたが間違いを客観的・論理的に指摘できないのなら、あなたは「テーラワーダは外道である」を認める以外にないでしょう。

>そもそも、あなたは、自力には限界があると思っているのでしょう。
だったら、あなたのその努力にも限界があることに気づくべきですよね。
対話・問答を通して双方が客観的・合理的であることで双方の自力の限界は突破できるでしょう。

>私も、あなたに理解させることに限界を感じています。
議論は、もはや不毛でしょう。
善友を救済者といえば間違いですが、救済者を善友ということはできます。
できますが、不共(ふぐう、共通しない)な下位概念、個性を優先して命名し、言及すべきです。
普遍と個、法と仏、個・仏が優先するということについて。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q102189400...

釈尊善友説にびっくりしてたら、とんでもないことを中村元は言ってる。

なんと!!釈尊凡夫説!!

中村元『ゴータマ・ブッダ』II、中村元選集[決定版]第18巻、p.445
ゴータマ・ブッダも臨終には気に入らぬことがあると、気が高ぶって、いらいらしていたらしい。修行僧ウパヴァーナが釈尊の前に立って、釈尊を煽いでいた。しかし釈尊はかれを退けた。『去れ、修行僧よ。わが前に立つなかれ』。釈尊でも凡人のようにいらだつことがあるかどうかということが学者のあいだで問題とされ、また経典はここでももっともらしい説明を加えているが、人間ゴータマのすがたを伝えているのだと解すれば、なんら問題はないはずである。かえって人間らしい姿である。

仏が凡夫に退転することがある???!!!
釈尊は成仏後でも「思いあがる」ことがある「気に入らぬ」ことがある「気が高ぶる」ことがある「いらいらする」ことがある????
中村元のアタマはほとんど「知的障害」!!!

>また経典はここでももっともらしい説明を加えている
どんな説明か知りたくても『ゴータマ・ブッダ』には出てこない。
情報量が少ない、役に立たないガラクタの山、「痩せすぎたブッダ」。

渡辺照宏『新釈尊伝』ちくま学芸文庫p.465
またウパヴァーナというビクがいました。久しく仏陀の近くにいて仕えていたが、この時になって仏陀はウパヴァーナを身辺から遠ざけられました。アーナンダはふしぎに思ってその理由を伺うと、次のように説明されましたーーー
「アーナンダよ。今やクシナガラのサーラ樹林の周辺は毛一本さしこむすきもないほど多くの神々がつめかけて、如来に最後の別れを告げようとして待っているが、如来の前に偉力あるビクが立っていて近づくことができない、と言って嘆いている。それゆえウパヴァーナを遠ざけたのである」
そして神々が嘆き悲しんでいるさまをお説きになりました。
この一段にも経典編集者の深い意図があるように思われますが、われわれにはよくわかりません。

経典の説明
「アーナンダよ。今やクシナガラのサーラ樹林の周辺は毛一本さしこむすきもないほど多くの神々がつめかけて、如来に最後の別れを告げようとして待っているが、如来の前に偉力あるビクが立っていて近づくことができない、と言って嘆いている。それゆえウパヴァーナを遠ざけたのである」
これって「また経典はここでももっともらしい説明を加えている」ですか?

ウパヴァーナ比丘を遠ざけた理由。
釈尊が「気に入らず、気が高ぶり、いらいらした」から(外道:中村元説)。より合理的かどうかは別としてよほどマシだと思うけれど???

清朝の古典研究は明の陽明学のような達意的なものでなく、古典を精密に考証・分析する学問が発達した。吉川幸次郎が書いていたと思います「Aという考証学者はどうしても解読できない部分があると、自分には解釈できないから”後賢を待つ”将来の他人の研究に委ねる。Bという考証学者は自分には読めないとは決して言わない、強引に読んでしまう」答えが出せない問題に誤解という答えを出すということ。

zysさんへの返信。
>なんでそう考えたの、ということに興味が湧いて、それを放っておけない、という感じですね。
ああ、そこを、そう考えたのか、と分かると、済んだ気持ちになります。

「テーラワーダは外道である」
放っておかずに処理してください。対話拒否はしません。

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Mgr.Yuiさん

2020/1/2021:59:52

基本的に正しいですよ。

というか、正論そのものです。

日本はいまだにガラパゴス化していて、近代西洋の自然科学を明治に輸入してきた当時の仏教学に、まだしがみついている状態ですからね。

仏教をまったく知らない西洋人の視点と、千年以上も伝統に則した仏教がある日本人とでは、当然、とらえ方は異なるはずです。

しかし西洋人の学び方、モノの考え方を採用し、伝統仏教の学問方法を放棄したことは、日本にとって致命的でした。


「いわゆる合理的宗教としての仏教と言う神話がつくりだされたのは、十九世紀のヨーロッパにおいてだった。ヨーロッパの学者が本格的に仏教に接触し、その研究をはじめたとき、彼等は、十九世紀合理主義の立場に立って、パーリ語文献のなかから好みに合う部分だけをひろい出し、まったく頭の中だけで純粋・明澄な原始仏教なるものを、虚構したのである。」

まさにこれは、西洋の植民地支配主義と大いに関係します。

彼らの「ルーツを求める思想」は基本的に西洋文明の優秀さを再確認することでした。まさにそれは、虚構そのものでした。
最たる例が、ナチスが重んじた「アーリヤ人」なる虚構ですよね。

現在の仏教学もさすがに、日本以外では、いろいろな見直しがなされています。

大乗仏教の成立も、かなり古い時代から存在するとされています。

少なくとも、小乗→大乗 という流れではないというのが定説になっています(日本以外)。

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sag********さん

2020/1/2021:05:45

もしかして、少しづつ自分で考える力がついてきていますか?

ヘルマン・ヘッセは次のように小説で、人工仏教を批判します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

おお、世尊よ、それはあなたご自身の探求によって、あなたご自身の求道によって、得られたものでございます。教えによって得られたのではございません!おお、尊師よ、ーーーこれが私の考えですが、何びとも教えによっては解脱を得られないのです!おお、世尊よ、あなたが悟りを開かれたときにあなたの心に起こったことを、あなたは誰にも、言葉で、そして教えで伝えることはできないのではないでしょうか!

・・・・・・・・・・・・・・

悟りを求めるのではなく、教えを作り上げた、後世の人工仏教を皮肉るのです。
中村元の非我説が、特殊でないことわかりましたか?


>>>かなり強引な推論に思われますが。

ではなくて、洗脳されていない知識人の世界では常識です。
ドイツ人のヘッセも、アートマンを追求することを忘れて、小理屈を追いかける仏教を痛切に皮肉ってますよ。

まじで洗脳はこわいよ~

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zys********さん

2020/1/2019:57:31

佐伯真光師は真言宗の僧侶でしたが、まあ、なんというか、
(上座部仏教が気にくわない)としか読めませんね。
どういうわけか、真言宗の僧侶は原始仏教、上座部仏教が
気にくわないようです。(笑)
それは根本的に梵我を否定するからではないかと思います。
大日如来といったらまさしく「梵」ですものねえ。

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