ここから本文です

法学部の学生さんか最近卒業した方に質問です。僕は高2でそろそろ進路を考えなけれ...

アバター

ID非公開さん

2020/1/2717:02:02

法学部の学生さんか最近卒業した方に質問です。僕は高2でそろそろ進路を考えなければなりません。僕の両親はバブルの頃法学部を卒業しています。2人とも口を揃えて言うには、法学部には卒論もゼミも必須ではないとの

事。母親に至っては2部を卒業しているので、必須科目すらなく規定の単位を取得すれば卒業できたそうです。

僕はコミュ障だし、論文も難しく思うのでもし法学部が今でも両親の頃のように卒論もゼミもなく、必須科目もないなら目指してみたいと思います。
両親の頃はコースや学科も分かれておらず、法学部で募集していたとの事です。

最近の法学部の事情をどうか僕に教えてください。

閲覧数:
66
回答数:
3

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

x32********さん

2020/1/2717:14:34

法学部は今は基本
国立大なら法学科のみが多い
私立大なら、法律学科と政治学科、最近なら国際法などの学科がある!
ゼミは大概、必須だが、卒論は大学や学科、ゼミなどによっては必須だったりそうで無かったりする!

ベストアンサー以外の回答

1〜2件/2件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

qqq********さん

編集あり2020/1/3005:37:38

現代において 正しいものはあるのか。

正しいものがあるとすれば
それは何なのか。

それを見抜く力があるとすれば
何なのかということに

ぜひ 答えて頂きたいと思います。

正しいものは何であるかって
探して…

え~ 2500年も探してんですよ。

ソクラテスも イエス・キリストも。
とのことです。


哲学部法学科または哲学科ヘーゲル?
実定法解釈法学と基礎法学

法律学科は卒論必修でないところが多い
論文もどきは提出はするけどね
でも法律科目は、本来単位取得は難しいのです。
ほんとうは大変難しいからねー
哲学科目?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A...

特別試験の内容 編集
この時の特別試験は「資料持ち込み可」[3]。問題は論述一問だけだった[3]。以下に問題文を示す。

わが民法のもとで、契約を破る自由は、どのように理解されるべきか。参考条文を掲げて論ぜよ

出席点はあまり関係ないことが多い
自宅で基本書と判例百選などで勉強するので。

公務員試験を受けている人は多い


東ロボくんの意味

Fランク大学不要論の意味

〇大スカスカの意味

文系廃止論の意味

即自かつ対自を使いこなすのはたいへん難しいのです。

文系学部廃止論の背景、Fランク大学不要論の背景に自然科学万能もうけ主義の新カント派的なウエーバーに代表されるフイシスの事実の真理のみがあり、ノモスの当為の真理はないとする価値観自由の没価値論の二元論があるのです。
ラサール
デユーリング、ベルンシュタインらは、変種です。
量と質、量と質の関係の中身段階区別つまり価値観すなわち価値判断ということです。

趣味の判断推理のうんぬんの話それが古代からある一元論、真理論と反真理論二元論相対主義、懐疑論との論争の件とかかわりがあるのです。


「ニ 概念の判断」

「概念の判断の内容をなしているものは概念、すなわち単純な形式における総体性、完全な規定性を具えた普遍者である」(一七八節)。
概念の判断とは、事物をその事物の概念(真にあるべき姿)にてらしておこなう判断です。
「日常生活においても、ある対象、行為、等々が善いか悪いか、真実であるかそうでないか、美しいかそうでないか、等々という判断がはじめて判断と呼ばれている」(同)。
概念の判断は、その事物の概念にてらして「善いか悪いか、真実であるかそうでないか」を判断するものであり、人間の生き方、行為のあり方、つまり価値に関する判断です。本来、世界や自然がどのようにあるのかを知ることと、そのなかで人間がどのように生きるか、ということは一つに結びついています。しかし近代科学の発展のなかで「自然科学の没価値性」が強調されるようになり、「知ること」と「生きること」とが切り離されるという二元論が大手を振って横行しはじめたのです。
こうした二元論は、他面で人間の生き方、行為のあり方について「より善く生きる、行動する」という「価値」について、「価値観の多様性」の一言で片づけ、価値についての真理を否定してしまったのです。
こうした二元論に異を唱え、「知ること」と「生きること」とを結びつけ、「よりよく知ることは、より善く生きること」という一元論を唱えたのが、ほかならぬヘーゲルなのです
ヘーゲルはこの一元論の世界観にたって、この生き方、行為のあり方に関する判断、つまり概念の「判断がはじめて判断と呼ばれている」として、価値判断こそ最高の判断であると位置づけたのです。「価値観の多様性」などと称して、より善く生き、行為する価値を求めない判断は、そもそも判断の名に値しないのです。
「われわれは、或る人が『このばらは赤い』、『この絵は赤い、緑である、ほこりだらけである』等々のような肯定判断や否定判断をくだしうるからといって、その人に判断力があるとは言わないであろう」(同)。
価値判断以外の判断は、「判断力がある」判断とはいえないのです。
概念の判断には実然的判断、蓋然的判断、確然的判断の三つがあり、後者になるほどより高い真理となります。
実然的判断における主語は「 まず、特殊な定有のその普遍者への反省を述語として持っている個である。すなわち、この述語は、特殊な定有と普遍者との一致あるいは不一致をあらわすものであって、善い、真実である、正しい、等々がそれである」(同)。
実然的判断とは「特殊な定有と普遍者との一致又は不一致」、すなわち、主語となる「特殊な定有」が、具体的普遍者である「概念」と一致するかしないかの判断なのです。この判断をつうじて、生き方や行為が価値あるものであるか否かが判断されることになります。
しかし、この価値判断は「実然的な〔断言的な〕判断」(同)にすぎませんので、なぜそうした判断となるのか、その必然性は何ら明らかにされていないという制限を持っています。
「この原理を主張しているいわゆる哲学的著作には、理性や知識や思惟などについておびただしい断言がみられるが、これは、今日ではもはや外的な権威はあまり役に立たないので、一つことを何度も何度も繰返すことによって信用をえようとするのである」(同)。
親が子供を叱るとき、「何回いったら分かるの!」ということがありますが、子供が理解しえないことに責任があるのではなく、親が単なる「断言」にとどめているために、「何度も何度も繰返すことによって信用をえようとする」ところに問題があるのです。
「実然的判断は、その述語においては、特殊と普遍との関係を表現しているが、その主語は直接的であるから、主語においてはこの関係を含んでいない。この判断はしたがって主観的な特殊性であり、これには反対の断言が同等の権利をもって ── あるいはむしろ不当をもって ── 対立している。したがってそれは すぐに単なる蓋然的判断となる」(一七九節)。
蓋然的判断というのは、真理であることもあれば、そうでないこともあるという価値判断です。実然的判断は断言する価値判断であり、その必然性が示されていませんので、「反対の断言が同等の権利をもって対立」しています。つまり実然的判断は、真理であることも、真理でないこともあるという「蓋然的判断」なのです。
「しかし 客観的な特殊性が主語に即して定立され、主語の特殊性が主語の定有の性状として定立されるにいたれば、主語は客観的な特殊性と主語の性状すなわち類との関係を表現し、したがって述語の内容をなしているものを表現する(前節)。この(直接的な個体性)家(類)は、かくかくの性状(特殊)を持っているから、よい、あるいは悪い。これが確然的判断である」(同)。
確然的判断とは、主語となっている個(この家)が、普遍(家の類)としての性状(特殊)をもっているから、家の概念(真にあるべき姿)に一致する、あるいは一致しないという価値判断です。この確然的判断により、価値判断は真理としての判断に到達するのです。
「すべての事物は、特殊な性状を持つ個別的な現実性のうちにある類(事物の使命および目的)である。そしてそれらの有限性は、それらの特殊性が普遍にしたがっていることもあれば、そうでないこともある、という点にある」(同)。
すべての事物(個)は、その事物の概念のそなえる「特殊な性状」(特殊)をもっているか否かにより、概念に一致するかどうかを判断されるのです。
例えば、「この家は、土台がしっかりしているから、よい」という場合、家の真にあるべき姿は長期間同じ姿勢を保つことにあり、「土台がしっかりしている」という性状(特殊)があるから、この家(個)は家の概念に一致することになります。
「かくして主語および述語は、各々それ自身全き判断である。主語の直接的な性状はまず第一に、現実的なものの個別性と現実的なものの普遍性とを媒介する根拠、すなわち判断の根拠としてあらわれる。実際そこに定立されているものは、概念そのものとしての主語と述語との統一である」(一八〇節)。
先ほどの例でいうと「土台がしっかりしている」という「主語の性状」は「この家」と「真にあるべき家」とを「媒介する根拠」となっており、その意味でこの性状は「主語と述語」(個と普遍)を統一する特殊なのです。
「概念は『である』という空虚な繋辞の充実であり、概念の諸モメントは主語および述語として区別されながらも、概念は両者の統一、両者を媒介する関係として定立されている。これがすなわち推理である」(同)。
これまでの判断は、「個は普遍である」というように、個と普遍を関係づける繋辞は「である」という「空虚な」ものでした。しかし確然的判断になると、この繋辞が「特殊」となっていて、「個 ── 普」という形式から「個 ── 特 ── 普」という形式に発展しています。このように主語の個と述語の普遍が、特殊によって媒介されているという思惟形式が推理とよばれるものなのです。
「確然判断においてわれわれは、その性状を通じてその普遍、すなわちその概念に関係する個を持つ。ここでは特殊は個と普遍との間を媒介する中間項としてあらわれるが、このことこそ推理の根本形式なのである」(一八一節補遺)。
こうして、判断は推理に移行することになります。

法的思考のすすめ法律文化社
法の概念ハート
ロールズ正義論

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

さん

2020/1/2720:38:06

大学によるけど 息子のいってるとこはプレゼミは必修だった。
で、結局 3年ではいったゼミの教授に気に入られて4年でも続けてやって
この間卒論は出した。必修じゃないけど。

あわせて知りたい

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる