平安時代坂上田村麻呂が戦った蝦夷と北海道にいるアイヌは同じ民族でしょうか?

平安時代坂上田村麻呂が戦った蝦夷と北海道にいるアイヌは同じ民族でしょうか?

日本史 | 政治、社会問題63閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">100

ベストアンサー

1

違います。 ●蝦夷は、「縄文人」と「第2の渡来人」との混成、混血集団です。 ●大和は、「縄文人」と「渡来系弥生人(第3の渡来人)」との混血集団です。 ●アイヌは「縄文人」に極めて近い系統の人類集団ですが、「縄文人」とは異なります。 ---------------------------- ・現生人類(ホモ・サピエンス)の誕生は、今から約20万年前です。 ・現生人類(ホモ・サピエンス)の出アフリカは、今から6~7万年前です。(今から7万年~7万5千年前に発生した、インドネシアのトバ火山のカテゴリ8巨大噴火が出アフリカの引き金であると推定されています。) ・今から、約4万1千年前に、日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)が渡来したようです(縄文人との関係は不明)。 ・今から1万6千年前に、日本列島で、縄文土器がつくられ、縄文時代が始まりました。←●縄文人(第1の渡来人) ・今から、約4千年前より、縄文人とは異なった人類集団が、日本列島に渡来した可能があります。←●第2の渡来人 ・今から、約3千年前より、大陸から「渡来系弥生人」が渡来し、日本に稲作をもたらしました。←●第3の渡来人(渡来系弥生人) ・6~7世紀に、中国、朝鮮半島から、「渡来人」が日本へ渡来しました。 ----------------------------- ↓読売新聞(2017年12月15日) https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=4 ↑日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?、斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。 ----------------------------- アイヌ民族は、おそらく本州方面にも、一時的に入ってきたものと考えられますが、その後、北海道方面へ引き上げていったと考えられます。 Y染色体ハプログループを見れば、縄文人とアイヌ民族とは、明確に別人類集団であることがわかります。「本土日本」の先住民は「縄文人」です。アイヌ民族は、日本人の祖先の一つである縄文人に極めて近い集団ですが、若干違いがあります。 ↓アイヌ人の遺伝子調査 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C#.E9.81.BA.E4.BC.9D.E5.AD.90.E8.AA.BF.E6.9F.BB ※注意:最近、D1bからD1a2へ系統整理に伴う名称変更がありました、ここでは旧名で説明します。 【Y染色体ハプロタイプ「D1b」詳細で見ると以下の通り】 ------------------------------ D1b*←アイヌ民族(80%)★ D1b1* ←本土日本人のみ(17%) D1b1a*←アイヌ民族(5~6%)★、本土日本人(6%) D1b1a1*←本土日本人のみ(僅か) D1b1a1a←本土日本人のみ(僅か) D1b1a2*←本土日本人のみ(12%) D1b1a2a←本土日本人のみ(僅か) D1b1a2b*←本土日本人のみ(僅か) : (省略) : D1b2a2←本土日本人のみ(僅か) ------------------------------ 「*」は、「D1b1~」「D1b2~」を除く、「D1b」系統の「他の別の系統」を示します。 D1b ---------D1b*←アイヌ人 ---------D1b1---D1b1a----D1b1a1←本土日本人、沖縄人 ---------D1b2---D1b2a----D1b2a1←本土日本人、沖縄人 ↓調査が進み、将来的には以下となる可能性もある。 D1b ---------D1b3---D1b3a----D1b3a1←アイヌ人 ---------D1b4---D1b4a----D1b4a1←アイヌ人 ---------D1b1---D1b1a----D1b1a1←本土日本人、沖縄人 ---------D1b2---D1b2a----D1b2a1←本土日本人、沖縄人 ↑これで「*」の意味が分かったでしょう。 ------------------------------------------------------------------- アイヌ人は、私たち「大和民族(ヤマト人)」の元となった「縄文人」に極めて近い系統の集団となりますが、おそらく中国大陸の何処かで「縄文人」と別れ、別行動をとり、樺太経由で日本列島に渡来したものと推定される民族集団です。 「アイヌ民族」が最初から「北海道」に住んでいたかどうかは、擦文時代の人骨(もしくは歯)によって核ゲノム(DNA)の調査を行わないと「わからない」ということになります。 ↓それは まず、北海道では、アイヌ文化の前に擦文時代があった。 そして、縄文人といえばつきものなのが「縄文土器」であるが、アイヌ文化は「鉄器」であって、伝統文化の中に土器が全く見られない。 擦文時代(さつもんじだい)は、北海道の歴史のうち、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて、擦文文化が栄えた時期を範囲とする時代区分。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする(青苗文化も参照)。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。 擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。 擦文式土器=「土師器」に近い(本州の「埴輪」も土師器) ↓コロポックル(Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AB ↓アイヌ人の小人伝説は北海道や南千島、樺太に広く流布しており、地域によって差もあるが、大体次のようなものである。 ---------------------------------------------- アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロボックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。 彼らはアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていたが、姿を見せることを極端に嫌っており、それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。 そんなある日、あるアイヌの若者がコロボックルの姿を見ようと贈り物を差し入れる時を待ち伏せ、その手をつかんで屋内に引き入れてみたところ、美しい婦人のなりをしておりその手の甲には刺青があったという(なおアイヌの夫人のする刺青はこれにならったものであるといわれている)。 コロボックルは青年の無礼に激怒し、一族を挙げて北の海の彼方へと去ってしまった。以降、アイヌの人々はコロボックルの姿を見ることはなくなったという。現在でも土地のあちこちに残る竪穴や地面を掘ると出てくる石器や土器は、彼らがかつてこの土地にいた名残である。 ---------------------------------------------- 「アイヌ民族」が最初から「北海道」に住んでいたかどうかは、擦文時代の人骨(もしくは歯)によって核ゲノム(DNA)の調査を行わないと「わからない」ということになります。←まだ、その調査はおこなわれていません。 もう一つ、注意が必要なのは、「アイヌ人」は、「ヤマト人、オキナワ人」には入っていない、別の、第三の系統の人類集団の「DNA」が入っています。 ↓東京大学プレスリリース(報道機関への発表) http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_241101_j.html ↑アイヌ人はさらに別の第三の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があり、本土人との混血と第三の系統との混血が共存するために個体間の多様性がきわめて大きいこともわかった(総合研究大学院大学のプレスリリースより)。 今のところ、約3500年前の「北海道礼文島」は、大和民族系の縄文人(つまり大和民族の先祖)と判明。 -------------------------------------- 北海道礼文島の船泊遺跡の縄文人の「Y染色体ハプログループ」を調査した結果、大和民族の元となった直系の先祖「縄文人」であって、アイヌ系ではないことが判明しています。 北海道礼文島の船泊遺跡の縄文人の「Y染色体ハプログループ」を調査した結果、「D1a2b1(D-CTS220)」であることが判明しました。 この「Y染色体ハプログループ」は「縄文人」の「マーカ」であって(つまり大和民族の直系の祖先)、「アイヌ系縄文人」の「Y染色体ハプログループ」ではありません。 あまりいい結果ではありませんね。これは、今から「約3,800~3,500年前」の北海道礼文島には、本州と同じ「縄文人」は居たが、アイヌ人は居なかったということを示唆しています。 北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800~3,500 年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体ハプログループがD1a2b1(D-CTS220)であることが判明した。 アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループD1a2が87.5%(うちD1a2*が13/16=81.25%、D1a2a1が1/6=6.25%)と大半を占める。 -------------------------------------- ↓アイヌ人は、片や「ヤマト人」の血が入っていたり、片や「ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民」血が入っていたり、または、その両方が入っていたりして、個人個人の「DNA」が広い範囲に「バラバラに点在」しているように見えてしまいます。

画像

1人がナイス!しています

その他の回答(5件)

0

違うという説が主流のようです。 一部では原日本人という名称が使用されています。それによると西日本ではヤマト政権に「同化」した人たちが主流で蝦夷とは「同化していない人たち」ではないかということです。アイヌ人はシベリアからアラスカなどに居住するツングース系の民族ではないかとされています。ツングース系は狩猟民族なので原日本人とは文化が違います。 その原日本人を狩猟民族だとすると坂上田村麻呂が補給もなしで遠征できた説明がつきません。したがって、稲作を行う民族であったことは間違いないようです。それにしても、渡来人の子孫に異民族を征伐させるというのは面白い発想だと思います。

0

不明。 東北地区は後のアイヌと大和が未分化だったと思われます。明確には10世紀頃に分離したと思えるから。 昔の絵ではアイヌに近い風貌で描かれています。 奥州藤原氏の絵も顔立ちは毛深くアイヌに近いです。恰好は大和。

0

私も阿弖流為の近傍出身者なので、アイヌと一緒かなとずっと思っていて、その後北海道で3年暮らしたことがあったんですが、 結論から言うと 似てるけど、イコールではない というところです。 全国を転勤して回ってきた見分からみると、確かに北東北人は毛深いし彫も深いのですが、アイヌの特徴はさらに濃い、濃すぎるのです。 北海道アイヌが樺太から蝦夷地に行き始めたのが10世紀以降という研究があり、それ以前は別の民族がいたようです。 その駆逐された民族が本州に行ったのかもしれませんが、阿弖流為は9世紀の人物なので、アイヌはまだ蝦夷地に到達していない時期です。 結論から言うと、北海道アイヌは、東北エミシではなく、アイヌ以前に北海道・北東北に住んでいた民族だろう、ただしその素性はわからない、アイヌに駆逐された「擦文文化」民族かもしれないが、証拠が少なすぎてわからない。 ただし、北海道アイヌと擦文文化人 が、人種・形態的に大きく違わなかった可能性もある。 このため、少なくとも、ユーラシア北東部、アリューシャン、アラスカ付近の東洋系民族全てを俯瞰して研究し、検討してみる必要がある。 ただし、イヌイットなどそれらの民族は、見た目は東洋人そのものであり、北海道アイヌのみ他の近傍民族からも「毛人」と言われて極端に毛深いなど、見た目が大きく違うのは事実。 つまり、ニアリーイコール かもしれないが、 絶対にイコールではない。 これが今のところの結論です。