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2020/5/1 5:33

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幕末って理系の教育を受けた政治家・武士が意外に多く無いですか?

日本史52閲覧

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

本当にその通りだと思います。 富国強兵には理系学問が必須ですね。

お礼日時:1/25 14:03

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他にも、佐賀藩の面々江藤新平、大隈重信、大木喬任、副島種臣がいます。 医者出身では木戸孝允、久坂玄瑞、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、森鴎外など。

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大鳥圭介や大村益次郎は上方・西国の医家ですから、蘭方医学で有名な適塾を通して当時ニーズが高まっていた兵学に関心を持つのは自然だったでしょう。彼らの場合は「理系」と言えるかも知れません。 それに対して武家の勝海舟や榎本武揚の場合は医学を経由せず、最初から兵学に関心を持ったと思われます。アヘン戦争の情報が知識人に入って国防意識が高まり、公式の砲術演習などが行われた時期ですから、有志の幕臣の間には洋式兵学を志す者も出始めた時期です。ちなみに榎本の父親は天文や測量に従事しており、父親の影響もあったと思います。 島津斉彬は彼らより1世代上ですが、「理系」とは若干異なり、琉球という国際関係を抱える薩摩藩の次期当主としての基礎教養だったと思います。彼の若年期はフェートン号事件などナポレオン戦争の余波が日本を襲い、また水戸藩や薩摩藩領にイギリス人が上陸して、無二念打払令が出された頃でした。幕閣でも阿部正弘など要路と親交があり、機密情報にも預かっていた斉彬はいやでも海防や兵器に関心を持たざるを得なかったのでしょう。 彼らが「文系」の学問たとえば国際情勢、地理、歴史に関心を持たなかったわけではなく、ナポレオン戦争がロシア経由で日本に紹介されて以来、欧州情勢にも多くの洋学者が注目しています。ただ蘭学が医学や本草学を中心に発展したこと、何より国防意識の高まりで兵学が喫緊の必要とされたことからそうならざるを得なかったのだと思われます。

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徳川幕府は鎖国体制を採っていたこともあり、海外の知識や思想が入ってくることに対して制限を掛けようとする基本姿勢がありました。 そのため、人文科学や社会科学などの文系の学問が入ってくることは難しく、そういった類の本が入ってくることもあまりなかったのです。 特に経済学や法学や政治学などの学問は、それを研究することによって「幕府体制」の経済運営や政治方針に対する疑問や批判をはぐくむ可能性があり、それは政権に対する反逆を生むかもしれないという理由により、弾圧される恐れがありましたから。 その一方で、杉田玄白らによって「解体新書」の翻訳が江戸時代中期に行われたことをきっかけに、医学の分野では西洋の知識が入ってくることが可能になりました。 医学に関しては「目の前の人の生き死にが関わる」ということもあり、漢方医では治癒しなかった患者が西洋医学の治療によって命が助かった、などの事例がでてくるにつれ、患者の側に「うちの息子が助かるなら、蘭方医でもなんでもいいから治療してくれ」とする強い要求が生じるので、受け入れられやすかったのです。 そして「医学を中心とした理系の学問ならば学んでも大丈夫じゃね」という空気が出てくることにより、海外の進んだ学問を身に着けようとした人間がこうした領域に集中してくることになったのです。

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社会革命は、技術革新によって社会変化が起こることによってもたらされる。 宗教革命は活版印刷で大量の聖書が安価で流通したことによって発生した。 産業革命は飛び杼の発明で大量の繊維製品が安価に流通したことによって発生した。 幕末の開国は、鎖国と幕府の主として軍事技術抑制政策によって阻害された技術革新が、欧米の先進技術に追いつくために実施された開放政策だ。 医療系、産業系、軍事系など様々な革新技術を幕府・雄藩が競って我が物にしようとしていた。 理系の知識習得には国家の存亡がかかっていたのだから、当然の話だ。 このように日本の場合は。ボトムアップ型の技術革命ではなく、トップダウン型の技術革命となったため、改革スピードが一段と加速された。 そして革新の担い手は家柄ではなく優秀な人材が広く求められ、結果的に、優秀な下級藩士が数多く抜擢されたため、後に必然的に発生した社会革命としての明治威信は、それらの下級武士たちに主導されることになった。

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法律や政治経済も学びましたが、まず最初に必要なのは技術、インフラだということでしょう、文学などは後回しですね。