ここから本文です

新田義貞にくっついた兵は、鎌倉を落としたのちは足利尊氏に従うのですか。 従...

dyw********さん

2020/5/2321:44:24

新田義貞にくっついた兵は、鎌倉を落としたのちは足利尊氏に従うのですか。

従うというか、頼るというか。北条得宗家が滅んだのちは足利尊氏が東国武士のトップと見られていたのですか。

関東の武士たちは、足利尊氏のもとに集まるのですか。
尊氏の子を奉じた新田義貞に一時的に集まったのですか。

補足頼朝挙兵に早く参加しなかったかどうかが、その後の子孫の代には膨大な差になっていたのですか。
群馬県の新田の荘だけですよね。
足利は、本拠の足利のほかに、三河に一族の吉良氏などがいたのですね。

閲覧数:
33
回答数:
4

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

hir********さん

2020/5/2813:37:51

>新田義貞にくっついた兵は、鎌倉を落としたのちは足利尊氏に従うのですか。

『鎌倉を落としたのち』というよりも、鎌倉へ向かっている進撃の際中から足利尊氏に従っていたもしくは影響力を受けていたというほうが正確ではないかと思います。


元弘3年/正慶2年(1333年)

5月8日
足利尊氏、赤松則村らの総攻撃により京都にあった「六波羅探題」は陥落しました。

ただし、この情報が関東方面に伝わるのは1週間程かかる事になります。


そしてその頃、関東地方にて

5/8、同日

まだ六波羅探題陥落の情報を知らない状態で新田義貞は、上野国(群馬県)新田荘にてついに討幕の挙兵を行いました。

実は鎌倉幕府は楠木正成戦などの苦戦により膨大な軍資金調達の為に各地に臨時徴税を課しており、帰国した新田義貞はこの徴税官らとトラブルになり彼らを斬殺してしまいました。
そしてその為に幕府からの討伐軍が派遣されるとの情報(噂)を受けてその先手を打ち挙兵に踏み切ったと言われます。

しかし挙兵時の兵力はわずか150騎(実際は他に歩兵部隊がいたはず)でした。
そして幕府方の上野国守護所に攻め入って幕府方軍(小勢)を壊滅させました。

そしてそこへ越後国(新潟県)などに割拠する新田一族の軍勢ら2000騎が合流して来ました。
ちなみにこの合流は予想よりも早いものでした。
つまり逆算すると越後国の新田一族は、新田義貞の挙兵決断前にはすでに国越後を出発していた事になります。

伝説では越後国に割拠する新田一族らの元に山伏たちが現れ

「義貞公が挙兵を決定したので急ぎ出撃せよ」

と伝言して廻ったとも言われています。

まだ『挙兵決断前』なのに?
一体誰の命令なのか?
ミステリーです...。



そして新田軍が利根川を変えて武蔵国に入る頃、信濃源氏勢ら5000騎が加わり7000騎となりました。

ちなみにこの合流も予想よりも早いものでした。
つまり信濃源氏勢らが軍勢を集結し、信濃国を出て武蔵国にて新田軍と合流するには新田義貞の『挙兵決断前』から準備をしていなければ説明がつきません。

よってこの事から、信濃源氏勢らがこのように早急に出陣できたのは、
事前に足利尊氏より新田義貞に協力するように手紙(書状)にて依頼、もしくは命令があったのではないかとの説も唱えられています。


そして更に新田軍が南下し利根川を渡って武蔵国に入る頃、
思いもよらぬ人物が新田軍に加わりました。
それは200人程の家臣たちに守られた足利尊氏の嫡男・「千寿王」(後の足利義詮、当時はまだ3歳)でした。

新田軍に足利尊氏の嫡男が加わったという情報は周辺の諸豪族勢力にはインパクトがあったようです。

田舎の小勢力の新田義貞が総大将では従えないが、まだ幼子とは言え源氏の名門足利家の嫡男が名目上とは言え足利尊氏の代理人として総大将を務めるなら話は別です。

足利家の家臣たちも「軍の総大将は千寿王」と宣伝しました。
これを受けて、上野、下野、上総、常陸、武蔵らの関東諸豪族勢力20万余騎が続々参戦し始めました。(実際は数万人位か?)

そして新田軍は鎌倉街道を進み、11日朝に入間川を渡り12日に小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)で「桜田貞国」を総大将とするやや優勢な鎌倉幕府軍を撃破しました。

翌13日、
武蔵国久米川(現在の東京都東村山市)で再び桜田貞国の鎌倉幕府軍を撃破しました。

5月15日、
分倍河原(現在の東京都府中市)にて鎌倉幕府軍と激突。
しかし幕府軍には「北条泰家」を大将とする10万(実際は1万人位か?)の軍勢が援軍として加わり、更に優勢な弓兵部隊の活躍で新田軍は敗戦してしまいました。
しかし勝利に浮かれる幕府軍は追撃せずに宴会を開く始末で、その為に新田軍は命拾いしました。


翌5月16日、
新田軍側にも相模国の「三浦義勝」などの三浦一族6000騎が援軍に加わりました。
実は三浦軍は本来は鎌倉幕府軍の援軍として派遣されていました。
しかしそれを逆手に取り、三浦軍は援軍と賭して幕府軍に接近して新田軍と共に奇襲攻撃を行って弓兵部隊を壊滅させ、鎌倉幕府軍の撃破に成功しました。

またここで、この三浦義勝は足利尊氏から三浦氏に養子に送り込まれたという経緯もある事から、この新田軍への援軍は尊氏からの指示ではないかという説もあるそうです。

そしてこの「分倍河原の戦い」後、新田軍には日見和をしていた関東の諸族が続々と加わり総勢60万7000騎になったとも言われます。

「分倍河原の戦い」の新田軍勝利の情報もあるでしょうが、
おそらくこの頃には京方面の六波羅探題陥落の情報が関東にも伝わった事もあるでしょう。


7月18日朝
新田軍は3方から鎌倉へ攻め込みました。

7月21日夜半
天文学者の計算によるとAM2時58分。
稲村ケ崎に干潮により干潟が出現し、新田軍がそこの突破に成功し鎌倉市内へ突入。

翌22日
東勝寺において北条高時ら北条一族と家臣ら1153名が自害。
鎌倉幕府は滅亡しました。


まとめると
新田軍はその進撃途中で信濃源氏勢や足利尊氏の嫡男の「千寿王」の存在や「三浦義勝」という足利尊氏の影・影響力が働いて大軍になったとも推測できるわけなのです。


>北条得宗家が滅んだのちは足利尊氏が東国武士のトップと見られていたのですか。

「足利尊氏」の足利家は元々は源氏の一族です。
源氏は全国の武士の棟梁と言われた一族でもあります。

平安時代に河内源氏の棟梁「源義家(八幡太郎義家)」の四男である
源義国(足利式部大夫)」が下野国足利荘(栃木県足利市)を領して本拠地としました。
そしてその次男である「源義康」以降の子孫が足利氏を称するようになりました。

また足利家は北条家と同じ「御家人」の家柄です。
本来なら源頼朝などの源氏に仕えた同じ身分の同僚なのです。

しかし
鎌倉幕府における将軍家の源頼朝の直系の血縁が絶えた後、
執権役の北条氏が台頭し、他の有力御家人は謀略などで次々と排除され、実際には北条氏と他の御家人らの関係は北条氏への従属関係にありました。
足利家も北条氏への従属関係にある1つだった訳ですが、やはり源氏の血縁者の家柄としての御一門であり、他からは一目置かれる存在ではあった訳です。

そしてまた、逆に言えばそもそも北条氏は(武家の)棟梁ではありません。
あくまでも鎌倉幕府の将軍権力の補佐官・代行者であるに過ぎません。
(ただし鎌倉幕府における事実上の最高権力者ではありますが。)

そして鎌倉幕府におけるその北条氏の執権政治体制が上手く行かなくなって来た為に、北条氏に対する不満が高まり、支持も下がり、その為に反乱が起き、鎌倉幕府は滅亡した訳です。

その北条氏を見事に打倒した中心人物である足利尊氏は、その武家の頂点の源氏の血筋である事も相まって、全国の多くの武士階級の者らから大いなる支持を得られたのです。


>関東の武士たちは、足利尊氏のもとに集まるのですか。
先に書いた通り、『関東』だけでは無くて『全国』の多くの武士階級の者らから支持されました。


>尊氏の子を奉じた新田義貞に一時的に集まったのですか。

はい。
『尊氏の子』の新田軍への参加はとても影響力が大きかったと思いわれます。


>頼朝挙兵に早く参加しなかったかどうかが、その後の子孫の代には膨大な差になっていたのですか。

先に書いた通り、
初代足利家当主は「源義国」の二男である「源(足利)義康」です。

一方、
初代新田家当主は「源義国」の長男である「源(新田)義重」です。

これからわかる通り、本来ならば新田家の方が足利家よりも源氏の直系にわずかながらも近い家柄なのです。

しかし
「源(新田)義重」は頼朝挙兵に加わらずに中立を保ち、その後に頼朝側からの参戦要請を無視し続けていました。
そして頼朝が関東で勢力を確立した段階でやっと鎌倉にいた頼朝に出仕するという態度であった為に頼朝から叱責され、以後は冷遇状態となっていました。

その後の源平合戦や奥州征伐にも参戦名に「源(新田)義重」の名は見られず、
更に1221年「承久の乱」の参戦名にも新田本家の名は見られません。

新田家は、元々初代からこのように鎌倉幕府にうけ・評価が良くなかったのです。

更にそれに加えて、
4代目当主の「新田政義」が鎌倉幕府から預けられていた囚人に脱走を許すわ、京都大番役として在京中に幕府に無許可で朝廷に昇殿と検非違使への任官を求めたりと、その軽挙妄動により新田氏を完全に没落させてしまいました。
そしてその為に新田本宗家は鎌倉時代の歴史書の『吾妻鏡』にも登場しないような一地方御家人に零落してしまっていました。

一方で逆に、足利氏は代々の当主が北条家から正妻を迎える(一部例外あり)などその勢力を保って来ました。
先の新田政義の件でも政義の妻が足利家3代目当主の「足利義氏」の娘という縁から、義氏の働きかけで所領の一部と惣領職を没収されたのみの寛大な処置で済ました。
この様なことから新田氏は足利氏に事実上従属している関係だったという説も唱えられています。

ですので鎌倉幕府時代末期のこの時代、8代目の新田義貞の時も没落したままの弱小勢力となっていたのです。

対する足利尊氏は、彼の正室である登子は鎌倉幕府の執権の北条氏惣領の家系である得宗家に次ぐ高い家格を有する赤橋流北条氏の出身です。

彼女の長兄は「北条(赤橋)守時」で鎌倉幕府最後の執権(実権は高時と長崎一族が握っていた)です。
更に四兄は「北条(赤橋)英時」で九州の鎮西探題の長官でした。
尊氏の足利家がいかに北条家と密接な位置関係にあったかわかると思います。

このように、
足利家と新田家は、尊氏と義貞の代でその勢力に膨大な差がついてしまっていたのですよ。

  • 質問者

    dyw********さん

    2020/5/2814:31:20

    六万貫を要求された話がありますよね。
    新田は病気を理由に勝手に戦地の河内国(大阪府)から帰ったので、その穴埋めと言うことだったということが理由のようですね。敵前逃亡?
    (鎌倉後期は、米1石が1000文ほど)
    お金の催促にやってきた幕府の徴税使を斬って、破れかぶれで兵を挙げたというようなのは誤りなのですね。
    きっちり、足利尊氏と連携を図っていて、下ごしらえができていたわけですか。
    京は仕方ないにしても関東の情勢では、北条方からすればボヤのうちに火を消せていれば情勢は変わった可能性もあるのでしょうか。早い段階で新田を確実に仕留めていれば大軍にならなかったかもしれないのでしょうか。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

質問した人からのコメント

2020/7/2 21:06:56

みなさん、ありがとうございます。

ベストアンサー以外の回答

1〜3件/3件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

2020/5/2403:43:21

勢力は遥かに足利が上で新田の鎌倉攻めに兵力が集まったのは足利尊氏の命令によるものだとする説があるくらいです。
鎌倉にいた年少の足利義詮を保護したのに、義詮を奉じて戦ったと見る向きもありますし。
尊氏に比べれば取るに足らない存在と言う事です。

saw********さん

2020/5/2322:55:08

同じ源氏でも、北条氏の親族であった足利氏と一御家人に過ぎない新田氏では圧倒的に家格の差がありました。鎌倉攻めの時も味方の軍勢が増えたのは足利尊氏の息子の義詮が合流してからです。新田義貞は足利尊氏に比べてかなり格下の存在だったので、関東武士が足利氏の下に集まったのは自然な流れと思います。

cwa********さん

2020/5/2322:07:21

鎌倉幕府滅亡後、京都は無政府状態になりました。足利尊氏は後醍醐天皇が帰還するまでの間、事実上京都を支配下に置き、治安や裁判を執行します。功績があった武家にも恩賞を約束する御教書を出しました(これは後醍醐天皇に無断でやったことにされて無効となる)。

しかし、後醍醐天皇の建武の新政はご存知の通り、武家には期待はずれでした。新田義貞はどうしていたかというと、鎌倉を落とした後、鎌倉を占領もせず奉行もおかずに上洛してしまいました。つまり、鎌倉を棄てたも同然のことをしたのです。

後醍醐天皇は、足利尊氏の力を恐れて、無主の鎌倉に尊氏の弟、直義を送ります。これは足利兄弟の力を分ける狙いがありました。

ところがその直後、北条時行が中先代の乱を起こして鎌倉を占領します。足利尊氏は北条時行を20日ほどで破り鎌倉を奪回しますが、その際に多くの東国武士や建武の新政で冷や飯を食わされた武家が尊氏に味方しました。また、尊氏はかつての御教書をもって恩賞を与えたため、さらに味方は増えます。

後醍醐天皇は鎌倉で勢力を拡大した尊氏を恐れて、上洛を命じます。しかし尊氏は義貞の討伐を条件に出します。結局、紆余曲折あって、後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏討伐を命じますが、鎌倉を攻めた新田軍は、大友や塩冶ら西国武士までが尊氏側に寝返り大敗しました。

つまり、鎌倉幕府滅亡後は、建武の新政と密着しまくった新田義貞を、全国の武士の多くは次々と見限り、建武の新政から離反した尊氏に味方していくようになります。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる