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キリストが十字架の処刑で人類の罪を消したという事ですが、なぜそれで人類の罪が...

oru********さん

2020/5/2823:44:03

キリストが十字架の処刑で人類の罪を消したという事ですが、なぜそれで人類の罪が消えた事になるのですか?

また、それからの罪はどうなるのでしょうか。

クリスチャン、聖書読者で詳しい

方がいましたらお願いします。

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カカロさん

2020/5/3112:03:03

まず、キリスト教において罪とは神様からそっぽを向くことです。全ての罪はこれに繋がります。
人々はみな心が弱いのでどれだけ奇跡を体験しようが、どれだけ助けられようがすぐ忘れて罪を犯します。
そうなれば裁かれなければなりません。神様は義の方ですから裁かないといけないんです。

しかし神様は愛の方でもありますから、生贄(人が裁かれる代わり)を差し出して悔い改めるなら許すと言ってくれました。これが旧約聖書の時代です。
しかし、人の罪は多すぎます。誰一人としてそれでは救われなかったのです。基本的に1つの罪に1つの生贄が必要だったからです。本当は罪1つでもあれば裁かれるのでそれを許してもらうには罪犯すごとに生贄が必要です。

そこで神様はご自身が人間レベルにくだって完全な生贄となってくださいました。(イエスは神の子であり、また神ご自身です。)
当時生贄といえば傷のない子羊でしたから、イエスは神の子羊と呼ばれます。
この罪のない完全な人間が生贄となったことで、私たちの罪は許されるようになりました。
罪のない完全な人間という生贄は、全ての人の罪を消すほどの価値があります。

ですから、イエスの十字架は人を救えるんです。
もしイエスが少しでも罪を犯していれば全人類の罪を帳消しにすることはできなかったでしょう。生贄として完全である必要があったんです。

もちろん、これを事実だと受け入れないならばこの許しは得られません。それは旧約時代と同じです。神様は罪を悔い改める「信仰」を求めているのですから。

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kit********さん

2020/5/3013:35:12

キリストが人類の罪を背負って罰をうけた。という考え方もありますが。もう一つの面としてはイエスキリストを通して罪を乗り越えていくという面があるのです。
新約聖書を読んでみると、イエスキリストは神が人間として現れた。ということなんです。だからイエスキリストは沢山の奇跡を示しています。それも一言で。病を癒したり、死人を蘇生したり、海を歩いたり、天候を変えたり、パンや魚を増やしたり、復活して弟子と供に食事をしたり、まあ半端ではないです。色々な聖人と言われる人がいますが、全然勝負になりません。あんな短時間で、あれだけの奇跡を一言で成就させることができたのは、7日で世界を創造したと神話的な話の神様ぐらいではないでしょうか。というのが前提にある宗教なのです。だからこの教えにはなにかあるのではと、歴史的に沢山の人達が期待してきた。
内容的には、
キリスト教での神は万物の創造主のことをいいます。
万物の創造主以外は偶像と言っています。
基本的にキリスト教では仏教のように転生輪廻は説いていません。
人間界は御国に住む天使を生むところであり、他界した後は、その人の持つ
魂の質に伴う世界に永遠に住むと聞いています。遺伝悪というものが、原罪としてありますが、イエスキリストを信仰することで、徐々に悪から厭離していくと説いています。ですから、この世が最終的な人間の住む世界ではなく御国(霊界)が人間の最終的な住む世界と説いています。キリスト教は御国に行くための準備するための教えです。この世の幸不幸が過去の功罪が引き寄せているとは言わず、人間が創造主(キリストイエス)と共に生きないことを不幸と説いています。ですから、どんな試練、不幸にあっても人間の創造主であるキリストイエスと共に歩みなさいと言っている。イエスキリストは個人的な人生の同伴者であり、平安を伴う永遠の私達の創造主なのです。
本当は、教会の組織は必要ないかもしれません。組織化するからその組織を維持するため、人間的な欲が絡んでくる。歴史的にも政治に利用され、本来の目的はどこえやら。基本は神話的ですがアダムが神のとの約束ををたがえることから、創造主との本来の関係を失ってしまったものを、イエスキリストによってどんな時でも神と共に人生を歩むという模範を示し、イエスキリストと歩むことで、本来の神との関係を回復させる。そういう教えなのです。実はイエスキリスト=神(創造主)なのであり、神自身が人間として生まれ、模範をしめし、今まで見えなかった神を視覚としてとらえられる形にして、イエスキリストの形として人間と関わることを可能にしたのです。キリスト教にも偶像はあります。(万物の創造主)が唯一の偶像です。イエスキリスト自体が生命そのものという意味では。人間は生命を受ける器に過ぎない。
スエーデンボルグ派のキリスト教においては、イエスキリストはあの世(霊界)においては霊界の太陽として存在しています。つまり人間の神の命を受ける器としての働きに霊界の太陽(イエスキリスト)は、霊界の大気をとおして、愛と知恵の要素を人間に与えているというのです。この世の太陽が生物に熱と光をあたえて存在させているような感じです。
つまりイエスキリストに意識を向けるという行為(信仰)は霊界の太陽から命を積極的に頂く行為にあたるのです。ですからイエスキリストは私は命のパンであるといったのです。イエスキリストを信仰することで、積極的に命のパン(愛と知恵)をいただくことになり、その行為が人間が持っている原罪を超える推進力となるのです。人間は自らの力では、原罪は越えられなくても、イエスキリストと共に歩むことでその命の力をいただき再生を可能としたのです。そういう道筋を神様はイエスキリストとして降臨することで人間と共に歩む方法を創りました。

o_r********さん

2020/5/3003:18:04

イエスの十字架刑死を原罪の赦しであるというのは、イエスの弟子たちから始まった解釈にすぎません。あくまでも信仰なのです。それは弟子たちにとって師を見捨てて逃げ去ったことへの罪意識から解放されるための、旧約聖書を持ち込んだ苦肉の策でした。実際に、最初期の伝承部分(ケリュグマ)では、「罪」が複数形で書かれており、これは律法違反の罪を意味します。人類の罪などという単数形の抽象的な意味は後代のパウロの時代からです。
新約聖書に記されているイエスの弟子たちの最初期の宣教内容を信じない者には、イエスの死はただの刑死にすぎず、人類の罪を消すなどという意味はまったくないのです。逆にイエスの十字架刑死を弟子たちが信じたのと同じように信じる者は、イエスの死からの復活をも信じる者となります。実際に、最初期の弟子たちは復活したイエスを幻視したのです。これも信仰心を持つことによる心理作用です。
ナザレ出身の大工のイエスという人物が紀元1世紀にユダヤの地で十字架刑死に処せられたことは歴史上の事実ではあっても、彼の死が人類の罪を消すことになるなどというのはあくまでも使徒的宣教を信じる者たちの間でのみ事実として通用し得る神話の物語なのです。
それがキリスト教の中心である「福音(エウアンゲリオン)」になってゆきます。これは十字架の死のみならず3日後の復活の出来事も含まれます。クリスチャンとは、このキリストの福音を信じる者を意味します。
あなたがこの「福音」を信じるなら、あなたの質問の答えは自ずとわかるはずです。

no_********さん

2020/5/2913:41:38

私たちが罪びとであるということは、不完全であるということです。
私たちが間違いをするのは不完全だということです。
私たちが病気になったり死んだりするのは不完全だからです。
それで推察できませんか?
私たちの罪、あるいは不完全さはまだ解消されていません。
罪の許しの道が開けただけとご理解ください。
罪または不完全さが全くなくなるのは
ハルマゲドンと呼ばれる、神による不従順な人類に対する裁きの後、
神はイエスを立てて千年間統治させます。
またイエスは大祭司としても働きます。
さらに、天に招待された一部の人類がハルマゲドン直前に天へ、
霊の命に復活し、
イエスと共同の統治者となります。対等という意味ではありません。
そして彼らも、イエスと共に祭司として働きます。
この祭司たちの働きにより、地上の人類は罪、あるいは不完全さを
拭い去られていくことになります。
これが千年統治の終わりまで続きます。
(黙示録21:6)
道が開けただけと書きましたが、実は厳密にはそうではありません。
忠実なクリスチャン全員は不完全ながら愛すべき民として、
神は受け入れておられます。それはイエスの犠牲のおかげです。
また、祈りにより神と話すことを受け入れてくださっています。
これもイエスの犠牲のおかげです。
そして祈りはイエスの仲介であることを認めるために、
イエスの名によって祈りを終えます。
それはイエスの犠牲の賜物です。
イエスの犠牲に感謝し、イエスの協力者にならなければ、
今も、将来も、イエスの犠牲の価値は適用してもらえません。
ハルマゲドン下で死ぬか、
千年統治中あるいは千年統治の終わりに死にます。
マタイ25章31節からその少の終わりまでを読んでください。
羊とヤギという2グループが登場します。
それらはハルマゲドン直前に地上に生きている全人類です。
ヤギとして分類される人たちはイエスとイエスの兄弟と呼ばれる人たちと
協力してこなかった者たちです。
彼らはハルマゲドンで拭い去られます。
羊は協力してきた人たちです。
ハルマゲドンを死ぬことなく通過します。
イエスの兄弟たちとは、天に招待されている人たちです。

Apolloさん

2020/5/2912:09:25

罪の赦される方法は旧約聖書に記されていますが、まさに其の通り行われてました。
其処で、イエスに寄って、贖われたとしています。

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