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中国史(清)についてです。 第6代皇帝の乾隆帝は貿易港を広州のみにし、公行に貿易...

pea********さん

2020/5/2919:17:14

中国史(清)についてです。
第6代皇帝の乾隆帝は貿易港を広州のみにし、公行に貿易権の一切を付与しました。
明代でも禁海政策を行なっていましたが、中国周辺の人は中国と貿易できないことに不満を抱き北虜南倭で衰退

したのも事実です。
そこでなのですが、なぜ、乾隆帝は禁海政策を行なったのでしょうか。
長文失礼しました。よろしくお願いします

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ste********さん

2020/5/3101:35:55

>なぜ、乾隆帝は禁海政策を行なったのでしょうか。

海禁は、日本の鎖国と同じような政策でした。
ですから、海禁を実施した背景も日本の鎖国と同じような
理由があったからです。

>貿易港を広州のみにし

ちなみに、こういう政策は、中国史の中では実は
当たり前のことでした。
どういうことかといえば、伝統的な朝貢貿易は、
一か国=一港と決まっていたからです。

例えば明代に日本は朝貢貿易(いわゆる勘合貿易)を
行っていましたが、その時の貿易港は寧波に限定されていました。
仮に日本の船が寧波以外の港に立ち寄ったとしても、
取引できませんでした。

日本史で、寧波の乱がおきる原因はそこにありました。

https://kotobank.jp/word/%E5%AF%A7%E6%B3%A2%E3%81%AE%E4%B9%B1

海禁とは、国が主導する朝貢貿易のみ許可されるシステムでした。
禁止されたのは、民間の商人の民間貿易だったと思ってください。

https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E7%A6%81

>中国周辺の人は中国と貿易できないことに不満を抱き北虜南倭

例えば、この場合の南倭とは、朝貢から排除された民間商人であり、
彼らは武装商人でもあったため、海賊化してしまったのでした。

ちなみに、明末には海禁を緩和して、倭寇の不満をやわらげる政策を
実施しています。

清の時代の海禁は、まず台湾の鄭成功対策として
遷界令から始まりました。

https://kotobank.jp/word/%E9%81%B7%E7%95%8C%E4%BB%A4

台湾を平定すると、この海禁は緩められました。
しかし、清朝も朝貢貿易以外は基本的に認めないという
立場をとるようになっていきました。

日本の鎖国も同様ですが、そこまで諸外国と積極的に貿易を
行いたくないという動機がありました。
また、貿易はすべて国家が管理しなければならないという考えが
あったため、貿易港を限定し、それを政府がコントロールしようと
したのでした。

清朝の広州での貿易は、政府が直接管理するわけではなく、
公行という組合を介して間接的にコントロールしようとしました。

ヨーロッパ諸国との交易は伝統的な朝貢の枠内で処理しきれない
ようなところがありました。
そのため、互市と呼ばれる朝貢の枠外の貿易の1つとして
広州で貿易を行いました。

https://kotobank.jp/word/%E4%BA%92%E5%B8%82

質問した人からのコメント

2020/5/31 18:11:12

すごく分かりやすいです!!
ありがとうございました!

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