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諸葛亮孔明はなぜ名軍師じゃないのですか。

遼次郎さん

2009/1/2817:38:27

諸葛亮孔明はなぜ名軍師じゃないのですか。

知恵袋の回答を拝見させていただくと、
孔明は、名宰相で、名軍師ではないという回答が多いです。
孔明は天才なんじゃなかったのですか。
さらに、名軍師ではない理由や、
具体例を教えていただければ幸いです。

補足確かに、、、
李厳って強い武将ですよね。
武芸が

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yel********さん

編集あり2009/2/221:49:30

私は名軍師だと思っていますが、
反論は控えた方がよいでしょうか?

別にどうでもいいけど
知恵袋書き込む切欠となったのが
ここでの盲目的な孔明低評価に
黙っておれなかったことだっただけに
諸意見に反論したくないことはないのですが
質問内容に若干反しますね。。



korertouさんの追記を受けて
(丁寧な返事ありがとうございます。)

軍師とは、「軍事の助言をする人」ではなく、軍事、政策、外交など
勢力の戦略運営全体に於けるアドバイザーです。


まだ劉備が借り物の新野の小勢力にすぎなかった時代に
天下三分の計という大構想を打ち立て
それを目標にさせることで劉備以下を奮起させた。
曹操南下を前に滅亡必至だった劉備軍を逃がし、
劉備に孫権との同盟を提案し、孫権を説いて弱小劉備と同盟させ、
赤壁で劉備軍は孫権軍と共闘して曹操軍を破った。
戦勝後の曹操軍追討の際に抜け目なく荊州5郡を手に入れ
益州を奪い、漢中まで切り取って天下三分の計を実現し
劉備を王・皇帝にまでした。
即位の際、大義名分を示して、劉備を説得した。
これが諸葛亮の「軍師」としての功績です。名軍師です。

詭弁ではなく、本来 軍師とはこういうものなので
『名軍師 諸葛孔明』の名は間違いなく正しいのです。


本来の「軍師」は上記のようなものです。
優れた軍師の能力を「王佐の才」とも言います。
文字通り「王を佐(たす)ける才能」です。
王の仕事を考えればそれが軍事限定でないことが分かります。
イメージの「総帥・参軍」的な軍事戦略面での期待も理解できます。
軍略面・人選面への疑問符にも反論は一応ありますが、
ここでは控えようかと思います。
ズバリな質問であったなら反論はできますが
質問が「名軍師」なので、これで充分回答になっていると思います。





※蛇足となりますが。
益州奪取は龐統、漢中攻略は黄権・法正が進言しましたが
諸葛亮は天下三分の計を既に考えていたので
益州・漢中を手中に収めることに異論はなく同意したと思います。
しかし、記録に誰の進言かというのが残るので
「諸葛亮が考えたんじゃない、彼の功績じゃない。」
という印象を与えてしまいます。
その為に後世の人間の眼には
「諸葛亮は何もしていない」と映るのです。
諸葛亮の非常に謙虚で、必要もないのに自分から進んで物を
言わない性格を考慮しなければならないと思います。
劉琦とのエピソードを挙げると
劉琦に身の振り方を相談されたとき、諸葛亮は答えず
高楼に上げられ梯子を外されてから、やっと遠回しに答えました。
そこで示された回答は名案でした。
諸葛亮のことは、この例からも明らかなように
「発言しない=知恵がない」なのではありません。
諸葛亮は謙虚な性格な上に、既に信頼と地位を得ているので
積極的に発言して、自分を売り込む必要もないのです。
一方、龐統・黄権らは自分を売り込む必要があり
積極的に進言したと思います。
益州・漢中の攻略を誰も言い出さなかったならば、
天下三分の計を思い描く諸葛亮が進言したはずです。

知恵がないのではなく、
発言に対して積極性がないというのが真相だと思います。


小学校を思い返すと
授業中、手を挙げて答える子は1番じゃありませんでした。
皆が認める1番の優等生は手を挙げません。

授業風景を文字で記録するなら
優等生は影が薄くなり、本当に出来る子なのか判りません。
ではどうするか? 先生やクラスメートに訊くのが1番です。
劉備はじめ蜀将が諸葛亮をどう評価していたのか。
魏呉の人間がどう評価していたのか。
これに尽きると思います。

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ベストアンサー以外の回答

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2009/2/401:13:50

諸葛亮の活躍した期間と濃密度が、蜀漢建国の前と後では建国後の方が長く濃いからでしょう。
劉備の遺児である劉禅に全身全霊を持って仕え、蜀の国を一人で背負った丞相・諸葛亮の姿が印象深すぎます。

後、いい加減軍師だ宰相だとこだわるの止めません?どっちにしろ諸葛亮が凄い人物だった事には変わり有りませんよ。

xtw********さん

2009/2/223:31:49

簡単に言えば

孔明の軍師としての活躍の大半は物語である「三国志演義」に書かれている事でありフィクションです
一方歴史書である「三国志」(いわゆる正史三国志でこれは蜀の文官をへて晋に仕えた陳寿が書き残した歴史書で三国志の物語の大元となる史料です)には孔明の軍師としての活躍は殆ど書いておらず宰相としての活躍が多く書かれています

つまり孔明の天才的な軍師としての活躍の大半は後世の人々が三国志の物語を作った際に付け足された物なんです
日本にもそういう事例多々とあります
他の回答者が書かれた忠臣蔵の吉良上野介の他にも水戸黄門が世直しの諸国漫遊をしたとか遠山の金さんや大岡越前が事件の一つ一つを自分で調べて裁決を下していたりとかいうのも物語をおもしろくするため脚本家が脚色した物なんです

三国志に限らず歴史小説(古今東西問わず)を読む際は頭に「これはフィクションなんだ」というのを入れてから読むことをお勧めします

hyd********さん

編集あり2009/2/409:02:33

孔明が名軍師と思えるのは、三国志演義の影響が強すぎるだけでしょう。
仮名手本忠臣蔵の影響が強すぎて、吉良上野介が極悪人と思われているように。
事例は他の方々も書いてらっしゃるので省略しますが、
史実の孔明は、名軍師とはいえませんね。

ちょい訂正。孔明が名軍師云々の話って、三国志上No.1軍師って話であることが多いから、
名軍師=三国志上No.1軍師で考えてた。

名軍師か普通軍師かヘボ軍師かで言うなら、間違いなく名軍師であるのは確かなので、
最後の一行を
史実の孔明は、三国志上No.1軍師とはいえませんね
に訂正します。

編集あり2009/1/3017:21:49

まず、挙げられるのが、前半期に一回も戦に出ていないということですね。
軍事面は劉備、関羽、龐統、法正に任せて、自分は内政面で能力を発揮しようとしたんですね。
劉備もそこは分かっていて、蜀侵攻の際は、龐統を。
漢中侵攻の際は法正を参謀として伴っています。

諸葛亮が自分で軍を率いるのは、劉備が死んでから、つまり軍を率いて戦ってくれる、良将がいなくなってからです。
諸葛亮が自ら軍を率いて戦いに向かうのは、本意ではなく、戦ってくれる将軍が皆死んでしまった為に、渋々率いて戦う嵌めになったのです。

しかし、諸葛亮は初めてながらも、劉備死後の内乱、異民族侵攻を見事に鎮圧、撃退しています。
諸葛亮には、この事例を見ると、そこそこの能力はあったらしいです。

ここで、デモンストレーションを行った諸葛亮は、次に大敵魏に対し、戦い、北伐を行います。

第一次北伐の緒戦では、諸葛亮は名将らしい戦いをみせます。

まず、まともに戦っても勝ち目はないと判断し、ドイツ軍ばりの電撃作戦で、魏に侵攻します。
劉備の死後、内乱や呉侵攻の戦費でぼろぼろだった蜀が、数年で立ち直ると踏んでなかった曹叡は驚き、夏候楙に数万の兵を
渡して向かわせました。
対する諸葛亮は、長安のある東ではなく、西へ西へと進軍していきます。
夏候楙は追いかけますが、これは諸葛亮の罠。
伸びきった魏軍の糧道を断ち、魏軍を壊滅させ、さらに南安、安定、天水の三郡を奪取します。
事態を重く見た曹叡は、指折りの名将、曹真に十万の大軍をつけ派遣。自分は長安まで赴きました。
さらに、張郃に三万の兵を持たせて蜀軍の糧道、街亭に派遣しました。
勢いに乗った諸葛亮は曹真に戦いを挑み、じわりじわりと押し進めていきます。
しかし、街亭に派遣した馬謖が山に陣取り、敗退してしまったのです。
諸葛亮の軍事能力はここまでが、限界のようだったんですね。

それからの北伐では、第一次のような戦績は残せず、(一応、張郃を討ち取る等の功績は残しましたが、戦略的勝利である長安を取っていないので、余り評価できない)五丈原で戦没しました。
人材を見る能力がなかった諸葛亮。
もし、第一次で、馬謖ではなく呉懿を行かしていたら、評価がもう少し変わったかもしれません。

話しは戻りますが、第一次北伐が失敗した諸葛亮は馬謖を斬ります。

しかし、この処断には賛否両論が飛び交っています。
諸葛亮が軍を率いる程、人材のいなかった蜀で馬謖は貴重な人材です。果たして規律を糺す為だけに有能な人材を斬っても良かったのか?
また、諸葛亮は魏延を必要以上に怪しみ、結果的に裏切りましたが、あの虐めに近い魏延の扱いは、ひど過ぎたのではないか?
魏延は漢中を任されてから、幾つもの城を造り、難攻不落にしました。さらに北伐行では獅子奮迅の働きをしました。
そんな魏延が裏切るのか?

さらに丞相府で育った人材もいがみ合って、能力が十二分に発揮できませんでした。

結論、適材適所が出来なかった諸葛亮は名将とは呼べない。

彼は例えるなら、旅順で御馴染みの乃木希典です。
自分の能力以上の期待をかけられ、苦戦をすると大バッシング。
少し可哀想な気もします。

ですが、宰相としての諸葛亮は世界でも有数の名宰相だと思います。
劉備死後の蜀は、本当にぼろぼろで、数十年はかかると思われていたのですが、それを数年で立て直します。
そして第一次北伐で彼が書いた出師の表は、名文として、今でも高く評価されています。
さらに幾度の北伐を行っても、蜀を困窮させることはありませんでした。


つまり、諸葛亮は名将ではないが、名宰相と言うことです。

kor********さん

編集あり2009/2/417:16:10

なぜ名軍師ではないか・・・名軍師としての功績がないからです。もしかしたらあったのかもしれませんがそういう話が伝わっていない以上名軍師としての功績はなかったと考えるしかないように思います。

>yellow paper bagさん
個人的には反論、ほしいですね。(確かに本質問の趣旨からずれちゃいますけど)現在の私の認識では「名軍師ではない」ですけど「いや、そうじゃないんだよ!」という意見があれば参考にしたいので・・・演義の影響で必要以上に神格化されているのは事実だと思いますが、何らかの名軍師としての根拠があってこその脚色かなあ・・とも思いますので・・・

丁寧な説明ありがとうございました・・なるほど、私は「軍師」という言葉を狭義でとらえすぎていたようですね。「演義」で描かれる天才軍師の姿はともかく、yellow paper bagさんの説明は大変納得できるもので勉強になりました。
今回の説明を参考に、また自分なりに考えてみようと思います。ありがとうございました。

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