最近、優勢思想という単語をよく耳にしますが、これは単純な疑問として思ったことです。自分が障害者になりいわゆる何の生産性もなく誰からも愛されていない人間である場合に、生きている理由、意義とは何になるので

最近、優勢思想という単語をよく耳にしますが、これは単純な疑問として思ったことです。自分が障害者になりいわゆる何の生産性もなく誰からも愛されていない人間である場合に、生きている理由、意義とは何になるので しょうか?相模原障害者施設殺傷事件にも繋がりますが、殺されることが問題な理由とはなんだと思いますか?

補足

「生きるにあたいしない命は」殺しても良い。と思うことはありませんが、では生きるにあたいしない命が生きている必要は何かと問われるとうまく言語化できる気がしません。倫理学や生命科学などの知見が必要になるのかも知れませんが、ご意見お伺いしたいと思います。

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3つの考え方について書かせていただきます。 1つ目は功利主義です。 人間は生きていく中で様々な行動を取っていきます。 行動には善い行動と悪い行動があります。 功利主義とは、より多くの人がより幸福になれば善、より多くの人がより不幸になれば悪といった考え方のことを言います。 これに照らし合わせて考えれば、善い行動とはより多くの人がより幸福になるような行動、悪い行動とはより多くの人がより不幸になる行動だと言えます。 ちなみに、功利主義で重視されているのは、より多くの人をより幸福にしようといった動機で行動したかという気持ちの部分ではなく、実際により多くの人をより幸福にできたかどうかという結果の部分です。 なので、どれだけ人を不幸にしようと企んでいたとしても、結果的に人を幸福にすればそれは善ですし、逆に、どれだけ人を幸福にしようと思っていても、結果的に人を不幸にすればそれは悪だということになります。 2つ目は義務論です。 義務論とは、この世界には時代や場所によらない普遍的なルールがあり、それに従って行動すれば善、それとは真逆の行動をすれば悪という考え方のことをいいます。 義務論では結果よりもルールに従ったかどうかを重視します。 なので、ルールに従って行動したのであれば、その結果どれだけ人を不幸にしたとしても善、ルールと真逆の行動をとったのであれば、その結果どれだけ人を幸福にしたとしても悪、ということになります。 ちなみに、ルールに従わなければいけないのは人間だけで、他の生物は従わなくてもいいです。 なぜでしょうか。 人間には自由意志があります。 ですので、自分の行いに責任をもち、自分を律していかなければいけません。 一方で、他の生物には自由意志がありません。 そのため、自分自身を律することができません。 自分自身を律することができない生物に義務論的な考え方を押し付けても仕方がありません。 また、同様の考え方で子どもや認知症、精神障害者といった方などもルールに従う必要はありません。 少年法が存在する理由もこれで説明することができます。 義務論では、ルールに従う義務とは誰かから強制されて嫌々やるようなものではなく、自分が自分に対して課すといった、自律的なものであると考えられています。 なぜ人から押し付けられるような義務を否定しているかというと、人間には自由意志があるため、自分で判断することができるからです。 また、ここで言うルールも誰から押し付けられたものではなく、自分で考えて導き出したルールのことを言います。 3つ目は社会契約論です。 社会契約論とは、人間の誰もが生まれながらに価値がある存在で、それゆえに誰もが生まれながらに一定の権利を持っているといった考え方のことをいいます。 一定の権利には色んな解釈があります。 社会契約論を唱えたロックは、人は生まれながらに生命、健康、自由、財産の諸権利を有すると考えました。 日本国憲法では、人が生まれながらに持つ権利として基本的人権が保証されています。 ただ、どの解釈でも生きる権利は保証されています。 この考え方では、他人の権利を侵害しない限り、どんなことをしても善、他人の権利を侵害してしまったら悪だと考えられています。 これらの考え方に基づいて、質問について考えていきましょう。 ちなみに、障がい者と一言でいっても様々な方がいらっしゃると思いますが、今回は生産的でない方に絞って考えていきたいと思います。 まずは功利主義から。 生産的でない障がい者の方は確かに、そうでない人に比べて善ではないかもしれません。 なぜなら、生産的であるということは人々に幸福を与えることに繋がるからです。 しかし、だからといって殺してはいけません。 理由は2つあります。 1つ目は、殺された本人や、周りの人が不幸になってしまうからです。 先ほども書きましたが、功利主義では、より多くの人をより不幸にすることは悪だと考えられています。 2つ目は、殺した本人も刑罰を受けたり、罪悪感に苛まれたりして、不幸になってしまうからです。 次に、義務論。 まず、生産的でない障がい者の方の義務論的な評価について考えてきいましょう。 この考え方では、生産的でない障がい者の方に自由意志や判断能力があるかどうかがポイントになります。 それがないのであれば、ルールに従う必要性はないので、善悪以前の問題です。 一方で、それがあるのであれば、ルールに従えば善、ルールと真逆のことをすれば悪ということになります。 次に、こういった方を殺すのは善であるか、悪であるかについて考えていきましょう。 殺人犯に自由意志や判断能力がある場合、ルールに従って行動した結果、殺してしまったなら善、ルールに反して行動した結果、殺してしまったなら悪です。 殺人犯に自由意志や判断能力がない場合、善悪は問われません。 最後に、社会契約論。 この考え方に基づけば、生産的でない障がい者の方を殺すのは悪だと考えられます。 なぜなら、殺人は人間の生きる権利を侵害してしまうからです。