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2020/9/21 19:27

1212回答

イエスキリストは、金持ちが天国に行くのはラクダが針を通るより難しいと言いましたが、金持ちを排斥しているわけではないですよね?隣人あいですし。でもその割には金持ちに厳しいですね。

イエスキリストは、金持ちが天国に行くのはラクダが針を通るより難しいと言いましたが、金持ちを排斥しているわけではないですよね?隣人あいですし。でもその割には金持ちに厳しいですね。

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その御言葉には続きがあります。 ルカ18:25~27 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」 以下19章で金持ちのザアカイが救われました。 ルカ19:1~10 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 ・・・お金持ちでも”神様の招きに応えれば”救われます。ただお金持ちは神様よりもお金(財産)を愛する傾向が強いので、救われる可能性が必然的に低くなる、ということです。 ルカ16:13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

わかりやすい説明ありがとうございました。勉強になりました。

お礼日時:9/23 22:05

その他の回答(11件)

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「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、 一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、 神と富とに仕えることはできない。」(マタイ福音書6章) という訳で、神と富(お金)は対義語なのです。 神と悪魔も対義語なので、お金=悪魔、と見ることもできるでしょう。 だから、お金持ちに厳しいのです。 神が大切なら、お金を全部失う覚悟が必要です。 これを口実に、信者からお金を奪うカルトなども存在するでしょうが、 そのようなお金大好きな、カルトや宗教団体は、 悪魔のために働いていると言えます。 なので、 貧しさの中で運営しているような団体なら、信用できますが、 信者から巻き上げた富で、権勢を誇っているような団体に近づいたとしたなら、 それは自業自得なのです。

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貧乏人は失うものが少ない。お金に無頓着で失うことを恐れない。金持ちは失うものが多い。お金に執着して、失うことを恐れている。これにつきると思う。

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「金持ちが天国に行くのはラクダが・・・」の話は、マルコの福音書10章にあるのが元本で、ラクダの話に先立って次のように語っている↓ 「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」(マルコ10:21) これはモーセの十戒のひとつ「隣人のものをむさぼるな」に通ずるもので、当時の経済は年ごとに経済が成長する社会ではなく富の総量はほぼ固定だから、一人がやたら貪ってしまったら他のひとは貧しくなる、それを本来の取り分におさえて、他の本来取るべき人にかえしなさい、という意味だ。 だからイエスの言葉が金持ちを悪とみなしたというものではない。新約聖書にはイエスの説話として金もうけを褒めた話がのっている。マタイ25章とルカ19章に、主人がしもべにカネをあずけて旅に出かけ、かえってきたときの話がある。 3人のうち2人のしもべは預かったカネで商売したり銀行にあずけて増やしたが、一人だけは土に埋めておいてそれを返した。主人はカネを増やさなかったしもべを叱責したとある。 この話は金儲けを称賛するからラクダの話と矛盾する、と思っては早計だ。そのまま読めばよいだけ。つまりAD1世紀のローマ帝国にも金融の融資があり、また銀行預金もあって、それらが利を生むという金融制度があったということだ。そして福音書を書いた初期キリスト教団の人間もその制度を非難していたわけではないということ。 ただし本当に金持ちが罪の意識から解放されるのはなんと18世紀だ。それまで富を増やすには、よそから奪うのが当然唯一だった。戦争をして奪う、新天地から奪う、植民地にして生産物を奪う・・・新天地や植民地の人間は人間とみなさなかったから罪の意識は無かったが、本当に金持ちが救いのスッキリした気持ちを持てたのはアダム・スミスの『資本論』以後といえる。

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与えないこと、無関心に問題があるんでしょう。イエスが金持ちなら全財産、貧しい人に与えるだろうし

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要するに、「自分の教会へ献金を沢山しなさい」ということです。キリスト教は「献金を払え、払え、もっと払え」と言います。献金と称して、金を搾り取れるだけ搾り取ります。