京都 二条城の当時の位置づけなのですが、当時は京都御所が皇居で平安京が霞が関で二条城が庭園付応接室と言う感じだったのでしょうか?
京都 二条城の当時の位置づけなのですが、当時は京都御所が皇居で平安京が霞が関で二条城が庭園付応接室と言う感じだったのでしょうか?
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二条城の役割は 1.将軍が上洛した時の居場所、ただし、慶喜の時は、二条城でなく、小浜藩邸に住んでいた。 2.御所を守るための幕府番役の詰め所、ただし、幕末の蛤ご門の変では、ここが前線基地にはならずに、各藩の兵が御所に集結していた。 3.天皇が、将軍に会うための行幸の場所 政治は、幕府がやっているので、霞が関は、江戸城になります。 幕末、天皇は、外国人が嫌いだったので、京都で外国人に会うことは有りませんでした。当然、幕府要人が二条城で、外国人に会うこともない。
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質問者からのお礼コメント
京都には伏見城と二条城しか無く京都民は大阪城や姫路城の様なバカデカイ城で無いので二条城は城の様な形をした単なる要人の応接室の様な使い方だと思っていました。
お礼日時:2020/11/4 21:28