以前に三国志時代の文通はどうやったかとか、劉備のパトロンたる麋竺さんの財政支援方法などで質問させていただきました。

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回答ありがとうございます。 質問の発端は資治通鑑(徳田本)を読んでいたら、曹操・董卓・袁紹の違いは開府したかどうかで、董卓・袁紹は開府していたら違う結果になったのでは?みたいな記述(訳注ではなく、徳田さんのコメントだと思いますが)がありまして、じゃあ開府したらどうなるのかと。 董卓は献帝ごと抱え込んで支配していたので自分で発令すれば同じことなのでやらなかったか、そこまで頭が回らなかった?。 一方、袁紹さんは黄河の向こうでジリジリしているなら大将軍府でも開いて曹操と張り合えばよかったのに。全土に故吏も多かったのでそれなりに影響力を行使できたのでは。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

みなさん回答ありがとうございました。 開府によって漢王朝府が無力化されるとか、覇道への近道ではないか、と考えたのですが、どうもそうではないようですね。 また幾つも疑問が湧いてきます。みなさんの知恵を伺いますのでよろしくお願いします。

お礼日時:2020/11/25 23:37

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開府ってのは、中央政府の要職にある人が自分の政庁を開く、ということです。 おっしゃるように、独自に部下を任命できますが、あくまで職権の範囲内です。 地方においては、太守なり刺史なりが各々、地方に政庁をを持ってますし、ある程度は独自に地元の人間を採用しますが、こういうのは開府、とはいいません。 司空が開府しても、職権は司空ですから、それを超えるようなことはできません。 司空という要職を円滑にこなすために、自分でスタッフを集める権限を持たされた、というようなことです。 基本的には中央政府の要職(三公・大将軍など)の権限ですが、後にはどんどん拡大されていきます。 袁紹も大将軍に就任していたとしたら、開府したかもしれませんが、記録にはないです。まあ、どっちにしたって、地方軍閥してますから、何が変わるってわけでもありませんが。 劉備も同じですが、先のご回答にあるように地域性に縛られない人材登用を行うために将軍府を開く、ということはあったかもしれません。 曹操の場合、中央政府を押さえている立場なので、自身のスタッフを中央政府を介さずに集められるのは大きなメリットでしょう。荀攸や郭嘉とかがそういう人です。 しかし、スタッフを集める権限はあっても、かれらを自分の家臣に取り立てるわけではありませんから、給料は国持ちです。 職権も同じです。開府したからといって、徴税だの兵役だのを勝手にどうこうはできません。懲罰は、自身のスタッフにはある程度できたかもですが、刑罰となるとどうですかね・・・。 まあ、そうはいっても乱世であり、曹操は司空であると同時に兗州牧(後に冀州牧)ですし、劉備に至っては三州の牧を兼任という立場です。 司空としてスタッフを集め、兗州牧として地方行政(ようするに支配地の政治)を行うわけですから、開府は別として、統治面ではかなり自由にできたと思います。 劉備に至っては、蜀科という独自の法律(まあ、条例というべきか)を制定している位で。

回答ありがとうございます。 より有能な人材、影響力のある士大夫を登用することで自分の勢力拡大を公然かつ積極的に行うために開府した、ということのようですね。 州牧との兼務ならば裁量も大きいので給料もなんとか都合付けてしまえそうです。

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後漢王朝が平常運転していた時期なら、大将軍、車騎将軍、驃騎将軍に司馬、司空、司徒など、複数の府が開かれており、貴方の考える様に自分の府に対しては朝廷を介さず人材の登用などの権限を与えられていた様です、ただ曹操や袁紹が開府するのは自分に権力を集中させる為ですから、開府する事でどんな権限を得られるかと言うより権限を自由に振るう為に開府するのだと思います 租税や徴兵に刑罰なら州牧でも権限はある筈ですから、より高い地位で開府しなければならないのは、支配地が複数の州を跨ぐ形で拡大していった為だと思います 平時であれば複数の刺史や州牧を兼任するって事はありえない事態ですが、後漢末の騒乱で袁紹や曹操の様に複数の州を支配下とする群雄があらわれました、後漢王朝の制度では州や郡、県の掾属には、その地の出身の人間しかなれなかった様です、つまり州刺史や州牧といった立場では、その土地の人間にしか人事権を行使出来ないって事になります 例えば劉備であれば、荊州刺史と益州牧を兼任していますが、この立場では荊州から益州に移ってきた諸葛亮の様な荊州人士を益州で要職につける事は出来ません、ではどうしたかと言えば劉備は左将軍でしたから、左将軍府を開いて荊州系の人臣はほとんど左将軍府の掾属として登用しています 後漢末の開府と言うのは、権限を得る為と言うより、広い形での人材登用が目的かと思います

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回答ありがとうございます。 乱れた後漢末期とはいえ、租税・刑罰・徴兵などは平常期だったころに準じた行政が行われていたが、開府することでそれを超越する、あるいは無視することが許されたのかな?と思ったのであります。 まあ、占領地では租税を緩くするとか、労役を免除して民の支持が上がったという逸話はよく聞きますが 「儂の府では官5、民5の租税とする」「労役は半減」 みたいな緩和策を打ち出せば当然、朝廷(漢王朝府)に納めるべき年貢とか労役人員は足りなくなりますね。 人材も自在に登用できるわけですが、俸給も払わないといけません。そうなるとますます納める税は減ります。 開府していれば公然と脱税?しても平気なのかな、と思ったわけです。