「作風」の一言です。
ただし作風はコード進行が全てではありません。
補足
改めて強調します。「作風」の一言です。
名の知れたアーティストが、少なくとも自分の名義で出す作品には、これが自分の作品であるということ(アイデンティティ)が分かる何かしらの要素があります。
それはコード進行に限った話ではありません。
「技術的に高度かどうか」や「売れてるかどうか」とかいうことは、そこでは問題にはなりません。
しいて問題になるものがあるとするならば、「意図的であるかどうか」、言い換えれば、「自身の表現の目的に対する手段として適っているかどうか」ということだけです。
小室哲哉も、鬼龍院翔も、「曲を作ってたら意図せずにそうなっちゃう」みたいな素人レベルの作曲はしてません。
少なくともシングルのA面曲や、アルバムの表題曲などのような自分の名前を前面に押し出す作品についてだけいえば、どの曲にも作風として一貫している部分があります。それに加えて、リズム的な部分、ハーモニー的な部分、楽曲展開の部分にて、個々の楽曲にバリエーションが加えられています。
A面曲や表題曲以外のカップリング曲なんかでは、自分の作風にこだわらない挑戦的な作曲をしていることが窺えます。
要チェックです。
その辺りの、「用いる作風のコントロール」は、自分の作風をしっかり認識していてこそ可能なことです。
音楽に限った話じゃないじゃないですね。
たとえば漫画家。
手塚治虫は、「絵を描く技術として高度」であるはずの、写実的や劇画的なタッチを週間連載のレベルで可能でした。
劇画の黄金期には手塚も劇画調のタッチを取り入れてましたが、最終的には自分の作風を貫いてました。
言ってしまえば、「素人や子供でも真似できる安っぽいタッチ」です。しかしそこに「価値」があるんですよ。
小室哲哉が用いた「小室進行」、作曲の素人が最初に覚えがちなコード進行のひとつですよね。
とはいえ、小室哲哉や鬼龍院翔などは作風が画一的すぎるって面は確かにあります。
そういうアーティストの気質のことを「mannerism(マンネリズム)」って呼ぶんですよね。単一作風主義だとか、作法主義とでも訳せるでしょうか。
彼らよりも偉大なアーティストはmannerismから脱却して、多彩な作風を使いこなす技量を持っています。あるいは、作風というものがコード進行やリズムよりも高次元のものへと還元された結果として「多彩な技法を使いこなすこと」自体が作風になってます。
若く経験の少ないアーティストほどmannerism、すなわち自分の作風、単一の技法にこだわりがちな傾向にあります。
mannerismそれ自体は悪いことではありませんが、意図してmanneristになるかどうか、ということだけが問題になります。