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日野富子の評判はそれとして、足利義政については誤解があります。 義政は「隠居」と何度も言い出しますが、死ぬまで政治に口出しをつづけました。 実態としては「大御所となって二元支配をした」というほうが近い感じで、これがために、乱の前には義視と政権移譲についての齟齬を生み、乱のあとは富子との二元体制で政治と関わりつづけ、はては義尚への権限移譲を何年もやりきれないという有様でした。 京都から大軍が去ったあと、義政は将軍権力・権威の回復に、いちおうは着手しています。 そのひとつには、寺社の荘園を武士が横領したら、それを返還させ、そこの代官には将軍お声がかりの武士を送りこむという政策があります。 これをやると、大名への権勢になるだけでなく、将軍家の与党を寺社の所領で食わせていけるため、即効性がありました。 乱がおさまっても、畠山氏の家督争いなどは依然として京都をおびやかしており、畠山政長は、義政に泣きつきます。 義政は、政長支援のために赤松、武田、浦上と声をかけていきますが、いずれも余力がないからと断ってきます。 こうした解決力不足に業を煮やして、山城で国一揆が勃発、畠山氏の軍勢を国外に退去させることに成功するのですから、幕府が頼りにならないと人々に印象付けることになったでしょう。
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質問者
2021/1/15 9:16