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2021/1/14 12:59

44回答

応仁の乱後に室町幕府の権威が失墜したのは、足利義政が政治に関心がなく、日野富子の暴政(主に資金面での問題)を止められなかったことも要因としては大きいですか?

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質問者

2021/1/15 9:16

足利義政の力量不足と中途半端な関与が権威失墜に繋がったと?

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日野富子だけじゃないですね いろんな勢力争ってますから 下の回答者さんたちけっこう勘違いされてるのを補足しますと 日野富子が悪女といわれる理由は山名に接近した結果 応仁の乱がおこったと勘違いされてる人多かったようですが、 本当は応仁の乱が起こって各勢力が争ってる所に両軍に資金を融通したせいで 戦が長引き、農民が犠牲になった。挙句乱も終わらなかった部分ですね テレビは日野富子が乱を終結させたと言った半年後には 明智の時代に100年続いた乱が終わりに近づくとか言ってますから、 テレビはけっこうその場その場の都合のいいこと言います 日本人は悪女が好きとか関係なく、歴史学で日野富子の悪女的な行動は もう事実関係による史料などで確定されてるので この知恵袋でどういおうと、歴史学者の客観事実でまず覆ることはないです 日野富子の乱を機会に金儲けして民衆が犠牲になった悪女的な行動が 覆ることはないです 応仁の乱を起こしたというより火に油を注いだ結果 火が止まらなくなったという感じですね 火が沈下したところでそこからの暴走が起きて秀吉の天下統一まで続くんですが

たとえば下の回答者が言う畠山氏の相続争いに関しては 富子は解決してません なので応仁の乱の騒動自体は終わってません たんに商売の場所を守っただけです といってもその商売も騙したりで農民からの一揆が起こったり 着服してたりするんですが なので乱自体の原因というより長引いた原因です

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応仁の乱についての最大の誤解は、乱の原因が将軍の跡継ぎ問題だ、と思い込んでいることです。むかしは歴史の教科書にもそう書いてあったので仕方ないんですが。 これは大きな誤解です。 乱のそもそもの原因は、幕府の有力メンバー・畠山氏の相続争いです。それぞれが、幕府の有力者である細川勝元と山名宗全を頼ったため、この両者が派閥を作って対立するようになります。両派閥とも、自分の正統性を主張するための「旗」が必要になります。そこで、もともとなかった将軍家の後継者争いをわざわざ起こさせて、御神輿に仕立てた、というのが現実です。 将軍義政と、その後継者に決まっていた弟の義視は、最初はともに細川方(東軍)にいたのですが、兄弟で意見が対立した結果、義視が山名方(西軍)に走り、「義政ー東の将軍、義視ー西の将軍」という構図に変わります。 もちろん、どちらの陣営も「将軍のため」に戦っているわけでは毛頭ありません。自分の利益のためだけに戦っているんで、敵味方の構成も猫の目のように変わります。そのうち、義政も浮き上がってしまい、中立というより蚊帳の外のようになったのは確かです。が、「何もしてなかった、超然としていた」というのは違います。 義政が、まだ年老いたわけでも子供を諦める年になったわけでもないのに、早々と弟を養子にしてしまったのは、一刻も早く将軍を辞めたかったから、それは間違いありません。 とはいえ、「軟弱で、政治にぜんぜん関心がないから、趣味に没頭したくて、将軍を辞めようとした」という世間一般の言い方は間違いです。 日本という国は「辞めたあとのほうが権力が振るえる」という不思議な国なのです。天皇より上皇が偉い、関白より太閤が偉い、将軍より大御所が偉い。実際、足利義満が「太政大臣」になって日本の事実上の独裁者のようになったのは、将軍を辞めてからです。義政も、義満の真似をしようとしていたのだと思われます。現職なら儀式や会議で面倒な仕事が忙しすぎる、辞めてしまい、うしろから将軍を操ったほうが、かえって権力が振るえるのです。 「大御所」として実権を握るためには、ただ辞めるだけでなく、「オレが譲ってやったんだ」と、なるべく恩に着せておくことが重要です。その意味で、本来は将軍になれなかったはずの弟の義視のほうが、待っていれば自然に跡が継げる長男の義尚より、「恩に着せやすい」「扱いやすい」存在だったということはいえます。 実際、義尚が将軍になったあとも、義政はなかなか実権を手放さず、息子にたいしてあれこれうるさく命令を出し、しばしば深刻に対立しています。義尚が京都を離れて六角討伐に没頭し、ゲリラ戦に疲弊して遠征先で病死してしまうのも、いわば「京都のウルサイ親父から逃れたかった、早く手柄を満天下に見せつけて幕府の実権を取りたかった」という思いがあったから、かも知れません。 応仁の乱は複雑怪奇で、「結局、誰が勝った」のか、よくわかんないんです。そんな馬鹿なといわれそうですが、義視も義尚もけっきょく「御神輿」に過ぎず、細川勝元と山名宗全の幕府主導権争い(この二人も婿と舅)に担ぎ出されただけです。そこに斯波氏や畠山氏の相続争いがからみ、裏切ったり乗り替えたり、昨日の敵は今日の友、いつのまにか細川が義尚を、山名が義視を担いでいる、という「ねじれ現象」が起きてたり、最後には決着つかぬうちに主要人物に寿命がきてウヤムヤになった、というのが正しいところです。 ちなみに妻の日野富子ですが。義尚は息子なんだから最後まで一心同体だったかというと、そうでもないんです。義尚も戦乱が続いているうちに思春期になってきますので、うるさい母の富子とは乱の後半にはむしろ対立しています。義尚が将軍になったからといって、幕府が富子の思い通りになるわけでは全くない。「義政が負けて富子が勝った」と思うのは勘違いです。 義政は結局、最後まで「どっちにも積極的に味方せず、勝ち馬に乗り続け、終わってみればきっちり大御所としての地位を築いていた」という意味で、たいしたものです。 あなたが考える「義政のイメージ」は、半分以上は誤解です。義政はもっと野心的で、プライドが高く、往生際が悪い粘着質の人間です。 義政は、政治家としても文化人としても、祖父の義満を強烈に意識して、というか敢えて対抗して「成金じいさんにはできなかったことをオレがやってやる」という自負があった人です。その現れが通称銀閣ですが、その話は別の機会に。 日本人は「悪女」が大好きです。いやまあ、日本人だけじゃなく人類すべてそうかも知れませんが、特に日本ではそうです。 現代の事件、ニュースでも「悪女」が出てくるとみんな大喜びで見ます。なぜなら、ニュース報道を作るのはオジサンだからです。 日本史でも同じです。歴史は男が書いて男が読むものです。「悪いことはみんな女のせいにしてしまえ」というのは、称徳天皇やら藤原薬子やら北条政子やら築山殿やら淀殿やら、日本史に枚挙の暇のないことです。   女のせいで国が乱れた、女がじゃしゃりでるとロクなことはない、女には口を出させるな、女は自分の欲得しか考えないんだから。こういうのを「ミソジニー」というそうですが。そういう話が男はみんな大好きで、だからどの時代にも「悪女」の物語が拡大再生産されます。 日本史上、最大の「悪女」とされるのが、日野富子です。 応仁の乱を起こしておきながら、敵にも味方にも金を貸し付け、大儲けした「とんでもない女性である」というのが、一般的な評価です。富子を主人公にした大河ドラマ「花の乱」(日野富子役は松たか子→三田佳子)も、視聴率がそんなによくなかったせいか、すでに忘れられた存在ですし、富子の一般評価を覆すに至ってはいません。 「応仁の乱」は日野富子の起こしたものではありません。 乱の結果で得をしたのは結局、日野富子だ、という言い方も、きっぱり間違いです。 ます、 「日野富子が、自分の息子をなにがなんでも将軍にしたくて、義視を排斥した」というのが、間違いです。 義政のあとは中継ぎで義視、そのあとは義尚、というのが了解事項であり、そこに対立はなかったんです。 そこに波風を立てたのは、畠山の相続争いにからんできた細川と山名の主導権争いです。ここに、義視と義尚がそれぞれ「神輿」として引っ張り出される結果になったんです。 さらに斯波氏や畠山氏の家督争いがからみ、さらに全国の武士が「あわよくば」とワラワラと乗っかってきた、というのが、乱の本質です。将軍家の家督争いなんか、本来はなかったくらいの話で、全然本質ではないんです。 その証拠に、東軍と西軍のメンバーはめまぐるしく(節操なく)入れ替わっています。 富子とその息子は最初は西軍のお神輿だったのが、途中で東軍に鞍替えした、というのも俗説である、と最近では分かってきています。 将軍の弟やら妻やら息子やらは、細川や山名たちに「乱の名目」として利用されただけの存在です。御神輿は御神輿、それ以上のものではありません。 しかし、最後に乱の収拾に動いた主役は富子だ、というのが最近言われている真相だそうで。夫より有能な政治家であるとは言えるかもしれません。   乱の本当の主体である細川勝元も山名宗全も、決着がつく前に死んでしまいますし、斯波も畠山も内輪もめをしているうちに勢力を失い、地元の守護代に権力を乗っ取られてしまいます。守護たちが財産を失うということは、それに乗っかっていた室町幕府自体が威勢を失うということです。血眼で将軍の地位を争っても、肝心の幕府自体が衰退してたら何もならない。 だから、大混乱のあげく消去法のようにして富子の息子・義尚が将軍になったからといって、それが最終勝利者とはとても言えません。父の義政は実権を離そうとせず、父との確執に疲れた義尚は威勢を高めようと無意味な六角征伐に没頭したあげく、遠征先の近江で陣没してしまいます。子供はいません。 一人息子に先だたれ、孫もおらず、夫とは長く別居状態、そんな女性が多少の金を溜め込んだからって、それで何を得たといえるのか。富子を「悪女だ」と言いいたて糾弾する意味があるのかどうか、その影で誰が「責任逃れ」をしているのか。冷静に考えたほうがいいです。

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質問者

2021/1/15 9:18

むしろ、日野富子は被害者ということですか?幕府の権威失墜には関わってないのでしょうか?

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日野富子のがめつさ、というのは、 政局的には大きな問題では無いでしょう。 庶民人気は悪かったですが、当時は庶民に政治的影響力が無いですから。 足利義政の最大の責任は、後継者選定問題で、 態度を常に曖昧にさせてしまった事です。 そもそも、まだ働き盛りだというのに、趣味に没頭したいから、 という身勝手な理由で、弟に将軍位を譲り、早期引退を画策する、 という行為自体が無責任です。 しかも、実子が生まれて、妻から責められると、 自らは揉め事から逃避してしまい、 妻と弟の対立を放置してしまいます。 さらに、細川・山名という実力者の家臣が介入してくると、 双方に都合の良い言質を与えて、結果として対立を煽りました。 この義政の優柔不断さこそが、幕府の威信を失墜させた、 と言って良いと思います。

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質問者

2021/1/15 9:14

幕府の威信失墜は足利義政自身の問題で、日野富子の暴政は、あまり関係ないということ?