ID非公開
ID非公開さん
2021/1/22 0:07
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行政の市民活動はなぜ「世間」と遠い場所にあるんでしょうか。
行政の市民活動はなぜ「世間」と遠い場所にあるんでしょうか。 以前、こんなことがありました。行政主催の、社会問題について考えるワークセッションです。シティ・ホテルの宴会場を貸し切り、第一部は大学の先生を呼び、プロジェクタを投影してのセミナー形式です。第二部は、車座になってワークショップ、ミートアップです。ワールドカフェと呼ばれる形式で、名刺交換をしたのちに一人がファシリテーターとなって討議し第一部の講演内容の課題解決の案を出し合います。そしていいものを最後の発表の際にそれぞれが壇上でまとめて報告をします。そのまま第三部で、地域の酒蔵が六次産業で開発したオシャレなお酒を飲みながら、オーガニック食材の料理を食べるバッフェ形式のパーティに移ります。会費は8000円だったと記憶しています。 それ自体はまあ聞こえのいい取り組みだと思います。 しかし、これって世間から遠すぎませんか。まず一般世間の人は、休日のヒマがないです。ヒマがあれば休みたいです。お金を払ってわざわざ小難しい社会問題に考えるなんてないと思います。しかも会費は8000円で、庶民の最新人気の飲み屋の感覚からすると高すぎます。この時点で敷居はかなり高く、実際、出席者は、地域の小金持ちとかだったり、もっというと、そういう界隈がかき集めるサクラだらけになります。結果、金持ちの内輪のサークル活動になるんです。それを行政が主催しているわけで、開催には血税が用いられているんです。社会をよくするため、と言うよりは、社会的にいかがなもんかと、思いませんか? ちなみに、タダでさえパーティって食品の廃棄ロスが激しいですよね? さっきまでSDGsに関する高尚な話をしていた。地域社会や地球環境の将来のために、資源を無駄遣いしないためにと現代社会の不条理を批判していた人たちが、食べきれない量の高価なオーガニック料理を食い荒らすわけです。サクラを入れてもガラガラな会場で、当然多くの食品ロスが出ます。バッフェの床は落っことした食べ物だらけでグチャグチャですし、テーブルには手も付けずに残して帰る客がたくさんいます。これって「偽善」どころかむしろ悪じゃないかと思うんです。 私は、この日本をよくするには行政と市民が連携するべきだと思っていました。それゆえに、日本の市民活動のこの手の実態に幻滅しました。最初から大多数の「普通の一般人」すら排除する敷居の高さです。まして社会的弱者は一般人よりも弱い立場です。在日外国人、障がい者、その他マイノリティは属性ゆえに経済的に貧しい、あらゆるハンデがあるわけです。そういう貧しい人からすれば、どんなに頑張って働いても給料日でも食べられないごちそうを大量に食べ残してSDGsだ何だと言う連中にはマリーアントワネットのような悪人たちに見えると思います。 しかしそういう弱者も納税者です。彼らも、生活保護受給者も、汗水たらして苦しくても血税を納めています。その税金で、こういう上級国民のサロンのような社会問題について考えるワークセッションを開催し、人が集まらないからとサクラをかき集めて、毎回同じ内輪の人間同士が内輪で楽しいひと時を過ごして矛盾行為をしまくることを運営しているわけです。 行政の市民活動はこのままでいいのでしょうか。私はそうは思えません。なんで行政は、上級国民だけを向くんでしょうか。まずは多数派の国民を向くべきですし、本当に確かな行政なら、さらに冷遇される弱い側を向くべきです。